さくさくと、踏みしめた足の下で雪が鳴る。ケイケイによれば、このホウセツ山は一年中積もった雪が融けることはないらしい。
「……おれ、雪って初めてだ」
白い息を吐きながらジェイトが呟くと、前を進むリュシアンが振り返って微笑んだ。
「南西育ちならそうでしょうね。ディロウの北のほうでも、ここまで積もってることは滅多にないわ。東の方が湿度が高いから、降雪量も多いのよ」
「あのお花は何ですか?」
ティセリーの指差す先を見ると、白い雪景色の合間にぽつりぽつりと真っ赤な花が咲いている。
「寒椿です。リュウセンの名物なんですよ」
先頭を行くケイケイが自慢げに語った。
「ティンランでは、椿は庶民の花なんです。小さいけれど、放っておいても雪の中で咲く強い花です。反対に、大きくて華やかですが、保護しないと枯れてしまう牡丹は貴族が楽しむ花ですね」
貴族、と呟いたティセリーが足を止める。必然的に、後ろにいたジェイトとリュシアンも歩みを止めることとなった。
貴族と呼ばれる身分の人間は、ディロウにも連合国にもいた。物語の中に出てくる彼らはもっぱら傲慢で、あくどい人物に書かれることが多いようだが、現実にはそうとは限らない。
とりなすようにケイケイが続ける。
「大丈夫ですよ。貴族にだって、御前のように優しい方もいます」
「あなたの御前は貴族なのね?」
「ええ、はっきりと聞いたことはありませんが、恐らくは……。他の貴族の方々はほとんどが今でも昔の帝都で暮らしていて、滅多に会うことはないんです」
それでも立ち止まったままのティセリーの肩に、リュシアンが優しく手を添えた。
「ティセリー、進みましょ? 会ってみないと、どんな人だかわからないわ」
「でも……」
雪を踏みしめて、ジェイトはためらうティセリーの隣に並ぶ。
「ティセリー、今更かもしれないけど、シュオとヴェイも元貴族なんだってさ」
「そうなんですか!」
世話になった南西領主二人を例えに出すと、ティセリーは目を見張った。
「ああ。そう聞くと、貴族だって悪い奴ばっかじゃねぇって気になるだろ?」
どんな先入観を持っていたのかはわからないが、この言葉は効果があったようで、やがてリュシアンに背を押される形で彼女は歩みを再開した。
「リュシアン」
「何かしら」
「あんた、いろいろ詳しいだろ? ティセリーのことも察しがついてるんじゃねぇのか?」
彼女が、自分と同じごく普通のディロウ文化圏の人間ではないことくらい、ジェイトだってすでに気づいている。
ひそひそ声で前を行くリュシアンへ問いかけると、軽いため息が返ってきた。
「あたしの口からは言えないわ。きっと、そのうちティセリーから話してくれるわよ」
「……そうだな、悪い」
彼女の言う通りである。ジェイトは礼を言うと、再び黙って足元に視線を落とした。
なだらかとは言い難い山道をなんとか乗り越えて、日が暮れる頃にようやくケイケイの案内でたどり着いた場所は、小さいがしっかりした作りの建物だった。雪に埋もれてはいるが、深いブルーの屋根瓦も、ベランダのような赤い手すりも目に鮮やかである。
「ただいま帰りました。御前、お客様です」
ケイケイが奥に向かって声を張る。しかし、しばらく待っても中からはなんの返答も無かった。
「……お出かけになっておられるのかもしれません。僕は少し辺りを見てきますから、どうぞ上がってお休みください」
促されるまま靴を脱ぎ、リビングらしき部屋へ通される。ケイケイはそのまま、改めて外へ出て行った。
椅子やソファの類が一切なかったが、リュシアンが敷物の上へ腰を下ろすのを見て、ジェイトとティセリーもそれに倣う。
「リュウセンって、変わった町なんですね」
「リュウセンだけじゃなくて、ティンランはみんなこんな感じよ。家の中で靴を脱ぐとか、床に座るとか、そういう生活なの」
「シュオから聞いたことはあったけど、本当だったんだな」
てっきりからかわれているのだと思っていた。
「そんなことより、ここの御前様の正体の方が気になるわ。あんな美少年侍らせて、脂ぎったオヤジだったら一目散に逃げるわよ、ティセリー」
「えっ、は、はい」
「人を見かけで判断するなよ……」
息巻くリュシアンにため息で返すジェイト。すると、廊下の奥から素足が木を踏む音が聞こえてきた。ケイケイの足音にしてはゆったりとしたその歩調は、ジェイトたちのいる居間の前で止まる。
「ケイケイ、いるか」
艶のある低音は、まだ若い男の声だった。続いて、天井から下がった布を払って声の主が姿を現す。
よく晴れた日の海のように鮮やかな青の髪は湿り気が残り、簡素な白の着流しをまとっているところから見て、どうやら風呂上りのようである。求めた従者の代わりに知らない人間たちが居間を占拠していることに気づき、彼はこちらも鮮やかなアザミ色の瞳を細めた。
「客か」
「あなたが雪峰の賢者様?」
「下界の者たちが勝手に呼んでいるだけだ。私はカリファ。ここでケイケイと静かに暮らしている、ただの隠遁者だ」
問いかけたリュシアンの脇を通り抜け、カリファと名乗った青年は赤い手すりにもたれかかるように座った。夕暮れ時の冷気が湯上がりの体に心地良いのかもしれない。
襟元から覗く胸には、大きな牡丹の刺青が施されていた。
「御前、こちらでしたか」
ぱたぱたと軽い足音を立てて戻ってきたケイケイが頬を膨らませる。
「狩りに出かけるのは結構ですけれど、台所に鹿をそのまま放置するのはおやめくださいって、僕言いましたよね」
「ケイケイ、酒が切れているぞ」
「今日買ってきました」
「よし」
満足そうな笑みを浮かべるカリファに、ケイケイがはにかむ。
「よし、じゃないわよ。こんな子どもにお酒買って来させるなんて、何考えてるのよあなた」
リュシアンが至極真っ当な指摘をする。カリファは気分を害したらしく、左側の眉だけを器用に吊り上げた。
「何か問題があるか?」
「大ありだわ! 成人するまでは、お酒を飲んだり買ったりするのは禁止なんて常識でしょう」
「落ち着いてください、リュシアンさん。僕はこっそり飲むようなことはしていませんし、酒屋さんもわかってくださっていますから」
「だから良いってわけじゃないわよ。教育上よろしくないって言ってるの」
「リュシアン、一旦落ち着けって」
放っておくとそのまま教育論を展開しそうな彼女を、ジェイトが制止する。まだ言いたいことがあるらしい彼女に代わり、この場は自分が来訪の理由を説明する他ないようだ。
「えっと、カリファ、で良いのか」
「かまわん」
「少し前に、レイオードって奴が来ただろ? おれたち、そいつを探してここまで来たんだ」
「お願いします、どんな小さな手掛かりでもいいんです。知っていることがあれば教えてください」
必死な面持ちのティセリーに、カリファは、懐から取り出した煙管を咥えて告げる。
「レイオードか。明確にどこへ向かうと聞いたわけではないが、心当たりならある」
「どこですか?」
ティセリーが身を乗り出すと、薄く苦笑する彼。
「まあ落ち着け。この時間だ。これから雪の山道を歩くのは感心しない。今日はここに泊まっていくと良い。あいつがここに来た理由も話してやろう」
見れば、手すりの向こう側では空に星が瞬いている。ジェイトたちはカリファの申し出に甘えることにした。