第9話

 

離れの障子を前にして、翠羽は大きく息を吸い込んだ。
数日前から、珍しい客人がここに泊まっている。兄とともに出かけることの多い彼だったが、今日は部屋にいることを、翠羽は知っていた。

「開いているぞ」

障子に手を掛けようとしたところで、逆に声をかけられてしまい、飛び上がりそうになる翠羽。どきどきと高鳴る心臓を抑えながら、そっと開いた障子の向こうで、彼は畳の上に胡座をかいていた。

黒髪の帝国人。名はリェールというらしい。仰々しい軍服姿ではなく、この日は白いシャツに黒いパンツのシンプルな格好だった。

「というより、鍵が無いのだな、虹族の家には」
「……帝国だと、障子に鍵をつけるの?」
「障子というのか、この紙の扉は。いや、そもそも扉が木でできた、もっと重いものだ」

雨戸のようなものだろうか。
首をかしげる翠羽に、リェールは無表情のまま、座るよう促した。

「翠羽、といったか。迷惑をかけてすまないな」
「迷惑なんて」

実際、別の部屋に滞在している紫響の方は、出くわす度に可愛い可愛いと騒がれるため、翠羽も困惑していたが、リェールに至ってはそもそも滅多に遭遇しないので迷惑も何もなかった。
その紫響は、兄と一緒に出かけている。今この家にいるのは翠羽とリェール、それからもう一人。

「あれ、翠羽?」
「白羚」

障子から顔を覗かせた少女に、翠羽はやっと落ち着けた腰を浮かす。部屋に入ってきた白羚は、ごく自然にリェールのそばへ歩み寄ると、ぺたんとその隣に座り込んだ。
彼女がリェールに懐いているのは知っている。しかし、相変わらずどんな関係なのかはいまいちわかっていなかった。

「……それで、今日はどうした?」

白羚の髪を撫でるリェールの手に視線を取られていた翠羽は、その言葉ではっと我に帰る。

「あの、実は、あなたにお願いがあってきたんだ」
「お願い?」
「そう、お願い」

目を上げたリェールに、翠羽は深呼吸する。そして、昨夜頭の中で何度も繰り返し練習した言葉を口に出した。

「私に剣を教えてくれませんか。お願いします」

畳の上に深く頭を下げる。うるさいほどの鼓動が翠羽の内側に響いていたが、相手はしばらく沈黙したままだった。あまりの反応の無さに不安を覚え出した頃、ようやく低い声が頭上から降ってくる。

「……とりあえず顔を上げてくれ。厄介になっている身で、そうも恐縮されたのでは堪らない」
「あ、うん……」

座り直した翠羽の額に白羚が指を伸ばす。畳の跡でもついてしまっただろうか。

「剣を教えてくれ、というのは」

無表情なままのリェールからは、歓迎も拒絶も読み取れない。ただ不思議そうに尋ねてくる彼に、翠羽は引き続き跳ねる心臓を抑えながら、続きを話す。

「紫響さんとの試合を見たんだ。あなたはすごく強い人だって、友達も言ってた。私はその友達にも勝てたことないけど、このまま守られるだけは嫌なんだ。だから、あなたに剣を教えてもらって、もっと強くなりたいんだ」

それは、翠羽にとっては大きなコンプレックスだった。年少であり、腕力もない自分は、常に周りの人間にとって守るべき存在として見られてしまう。そこから脱却したかった。自分も、誰かを守るこのとできる人間になりたかった。
リェールの隣で、大きな目を瞬かせる白羚が、ちらりと視界に映る。

ふ、とリェールが少し表情をほころばせた。

「断る、と言ってもお前は聞かなそうだな」
「じゃあ!」
「私が教えられる範囲で良ければ、だが。しかし、私はお前の実力を知らない。お前がどれほどの腕前なのか、まずは私に見せて欲しい」
「もちろん。いつも碧珠と練習に使ってる道場があるから、そこへ行こう」

はやる気持ちのままに立ち上がった翠羽は、最速で準備をすませると、リェールを一番近くの道場へ案内した。たまたま道場には人の姿がなく、翠羽たちの貸切状態だった。

翠羽は木刀で、リェールは自前の長剣に鞘をつけたまま、しばらく打ち合いを続ける。とはいえ、あの剣試合と同じように、ひたすら打ち込みに行く翠羽を、リェールは長剣でさばくだけだったが。

「その木刀は」

すっかり息の上がった翠羽が休憩を申し入れ、ひたいの汗をぬぐっていた時、呼吸を乱しもしないリェールが首を傾げる。

「使わなければならない規則でもあるのか? 黄雅は槍を持っていたが」
「……兄さんは、剣より槍が得意なだけ。別に規則とかじゃないよ。碧珠の剣だって、これよりずっと大きいし」
「お前は、一番得意な武器はなんなんだ?」
「これ……、だと思うけど。わからない、他に使ったことがないから」

握った木刀に視線を落とす。虹族の若者たちが使う一般的な練習用の剣で、十二の誕生日を迎える少年に配られるものだ。ちなみに、女の子には舞で使う扇が贈られる。
碧珠も昔は同じ木刀を使っていたが、道場に認められ、真剣を持つことが許された際に、軽すぎると言ってあの大きな湾曲刀を選んでいた。

「……重すぎるのではないだろうか」

顎に手をやり、考え込む様子のリェールに、翠羽が当惑していると、背後で道場の扉が乱暴に開かれるやかましい音がした。

「よう、翠羽じゃねぇか。噂の帝国人も一緒か」

大声に、窓辺でうたた寝をしていた白羚が目を覚まして、怯えた表情をする。それもそのはずで、先日彼女を散々怖がらせた二人組、藍寛と丹槙だった。

「二人とも、何しに来たの?」
「なんだよ、俺たちが来ちゃ悪りぃのかよ。ここは誰でも使える道場のはずだったけどなぁ」
「そうだ、翠羽。ここで会ったが百年目じゃねぇが、ちょっと勝負しようぜ」

リェールの背後に隠れた白羚の姿を目で追って、藍寛が下卑た笑みを浮かべる。

「今度は二対一なんて卑怯なことしないからさ。俺と勝負して、俺が勝ったら今度こそその子をエスコートさせてくれよ」
「なんで私がそんな勝負を受けると思うの」
「やらねぇならお前の不戦敗だ。連れてかせてもらうぜ」

どこまでも強引な二人に、翠羽はため息をつく。今回はリェールがいるので、無理に彼らの相手をしなくとも白羚は安全なのだが、こうも絡まれるのは面倒だった。

「翠羽」

低い声で呼ばれ、翠羽はリェールの方へ向き直る。

「これを使ってみろ」

手渡されたのは、一振りの見事な短剣だった。普段使っている木刀の半分にも満たない長さのそれは、真剣であるというのに不思議と軽い。

「って、ダメだよ、私、真剣はまだ……」
「いい。使い方は……」

そっと戦い方を耳打ちされる。それは聞いたこともない戦法だったが、リェールの落ち着いた声が翠羽の背中を後押しした。どのみち、真っ正面から立ち向かっても歯が立たない相手なのである。

「わかった、やってみる」

頷き返し、ついでに白羚へ安心させるように笑いかけてから、翠羽は木刀を構えた藍寛へ相対した。

「なんだぁ、その短い剣。そんなんで俺に勝つつもりかよ」
「いいから、かかってくれば? それとも、私に負けて恥をかくのが怖いの?」
「なんだと、てめぇ!」

大きく木刀を振りかぶった藍寛が突っ込んでくる。緊張を飲み込んで、翠羽は冷静にその動きを観察した。そして、挑発に乗った彼が打ち込んでくる直前、大きな隙ができるのに気づいた。
その隙目掛けて、切っ先を突きつける。

「な……っ」

自身の攻撃が届くより早く、脇腹に短剣の鞘を押し当てられた藍寛は、ぴたりと動きを止めて呻いた。外野で拳を握りしめていた丹槙もぽかんとしている。何が起こったのか、わかっていないようだった。

「私の勝ちだ」

静かにそう宣言して、短剣を引く翠羽。見る見るうちに、藍寛が顔を真っ赤に染める。

「ズルだ、お前、またズルしたんだろ!」
「そう思うなら、もう一度やってみる?」
「………っ、覚えてろよ!」

そのまま、彼は惚けた顔の丹槙を引きずって、足音荒く道場を出て行った。

「……勝った」

二人の後ろ姿を見送ってから、翠羽の中に初勝利の感慨が湧き上がる。

「藍寛に勝った!」

くるりと後ろを向いて、満足そうな顔のリェールに飛びつく翠羽。さすがに驚いた表情を見せたものの、彼は翠羽のタックルを受けてもよろめきもしなかった。

「藍寛に初めて勝った! ありがとう、リェールのおかげだよ!」
「そうか、良い戦いだった」
「本当にありがとう!」

勇気を出して頼んでみて良かった。感謝の意を全身で伝える翠羽の耳に、小さな笑い声が届く。

「ふ、ふふ。あはは」

リェールの背後にくっついたままの白羚だった。くすくすと笑い続ける彼女に、翠羽は自分のはしゃぎっぷりが恥ずかしくなり、慌ててリェールの長身から離れる。

「そ、そんな笑わないでよ、白羚」
「ご、ごめんなさい、でもおかしくて……」

目頭に浮かんだ涙を拭う白羚。翠羽は憤慨する一方である。

「もう、リェールからも何とか……、リェール?」

反応のない彼の袖を引くと、リェールは白羚を見つめていたオッドアイの瞳を、翠羽に向けて細めて見せた。

「……ああ。翠羽、これからも白羚と仲良くしてやってほしい」
「当たり前だけど?」
「……、そうか」

小さく微笑むリェールに、何を今更と翠羽は首を傾げるのだった。