第18話

 

クローヴィスが用意してくれた四角いイスに座ると、千佳子にすかさずポケットから取り出したコーヒーを手渡された。彼女自身は床に転がった缶を拾い上げ、プルタブに指をかける。

「夏目先生、これヴィル先生の分じゃないんですか?」
「レディファーストって事で。ね、ヴィル君」
「構わん。自分の分はある」
「・・・・・・なんであるのかなぁ? 私の心遣いはどっちにしろ無駄だったってわけ?」
「お前の居ない間に買ってきた」
「ケンカ売ってるんだね、よくわかった、受けて立つよ!」
「それは推奨しない。お前がけがをするぞ」
「そんなガチの殴り合いじゃないよ!」

テンポのいいやりとりが続く。

「仲、良いんですね」

千佳子はやや意地悪というか茶目っ気のある印象だが、それにしてもクローヴィスの天然は難攻不落らしい。一方的に振り回されている。

クローヴィスと慧哉が向かい合ったらどうなるだろう、と思ったのは、千佳子の口調や性格に彼と通じるところがあると感じたせいだろうか。少なくとも杏輔よりは、まともなコミュニケーションを図ってくれそうである。

「・・・・・・萩野」

ひとり考え事にとらわれていた絢世を、クローヴィスの落ち着いた声が引き戻した。

「あ、すみません。なんですっけ?」
「いや、何かあったか?」
「そ、そんな大したことは別に・・・・・・。大丈夫です」
「そうか。疲れているようなら、用事は神崎に頼むが」
「大丈夫です」
「テスト前だからって気にしないで、男の子はどんどん頼ってやって良いんだよ?」

ブラックコーヒーを呷った千佳子が唇を尖らせる。絢世が受け取った缶も同じものだが、砂糖も入っていないそれは苦すぎると知っているので、もっぱら手で転がしているだけだった。

「・・・・・・では、翠羽のことなんだが」
「はい」
「テスト期間前後は、私の部屋で翠羽と会うのはまずい、というのはわかるな?」

頷く絢世。テスト期間に生徒と教員がむやみに接触しては、あらぬ疑いをかけられかねない。

「そこでその間、三条勇哉に翠羽を預かってもらえないか聞いてみて欲しい。新しい手がかりも得た。いつでも会えるようにしておいた方が良いだろう」
「そういうことなら。連絡してみますね」

勇哉のアドレスも、慧哉ついでに登録してある。

「三条勇哉って、三条慧哉の弟の? へぇ、意外と顔広いんだね。神崎君が怒りそうだ。下らん連中とつるむな! なんてさ」

悪気無く発せられた千佳子の言葉が、いかにも幼なじみの威高々な声で再生されたように聞こえた。絢世の頬がかあっと熱くなる。

「あ、それで先生、新しい手がかりって? もしかしてあの絵ですか?」

咄嗟に話題を変え、座ったままくるりと二人に背を向ける絢世。クローヴィスが千佳子をたしなめている雰囲気を後ろに感じた。

どきどきと早鐘を打つ心臓をなだめるように、大きく息をつく。
目を上げると、先ほどまでクローヴィスが描いていた油彩画が視界に飛び込んできた。

机の天板ほどもある大きなキャンバスには、淡いピンクや紫の絵の具が塗り重ねられている。千佳子が憤っていた金髪美女の姿は背景の色に埋没するように描かれており、はっきりとした輪郭があるものではない。しかし、あるいはそれ故にか、彼女がひどく儚げで、遠い存在であることが伺える。

息が詰まった。
絵から溢れる、どうしようもない切なさに圧倒される。
普段が無表情のクローヴィスからはとても想像できない、焦がれるような感情の渦。

「・・・・・・萩野、これなんだが」

その制作者に突然肩へ触れられ、飛び上がりそうになる絢世。滲んできていた涙を慌ててブレザーの袖で拭う。

「せ、先生。この絵は・・・・・・?」
「未完成だ。それより、翠羽の新しい手がかりはこっちだ」

珍しく、有無を言わせぬ堅い口調で断言したクローヴィスが、手にしたスケッチブックから紙を一枚破りとる。
手渡されたそれは、色鉛筆で詳細に描かれた美しい少女の似顔絵だった。

「いいなぁ。こんだけつき合わせておいて、私には何もないの? ヴィル君」
「夏目はこっちだな」

もう一枚切り離した紙には、モノクロの鉛筆画ながらモデルと瓜二つな白衣の女性が描かれていた。唇からは今にもため息が吐き出されそうな程である。

「すごい、そっくり!」
「えー、私こんな疲れた顔してる?」
「夏目、また徹夜しただろう。研究熱心なのは良いが、充分な休養を取らないと体に毒だぞ」
「ヴィル君・・・・・・」
「目元のクマまで描き込むのは正直、心苦しい」
「そんなとこまで再現しなくていい!」

容赦なく頬をつねられる副担任の姿を、絢世は実際に目撃することとなった。