第23話

 

なんとかお屋敷を出る前に朔夜が見つけだした車椅子へ橙珂を乗せ、最寄りのバス停へと向かう。
その途中、状況が変わってしまったことを杏輔の携帯へ連絡すると、さすがの暴君もお嬢様のわがままには絶句するほかないようだった。

そのお嬢様は今、駅ビルの一角で可愛いを連発している。

「ねえ、絢。これすっごく可愛いわ。サイズ無いのかしら」
「探せばたぶんありますよ。橙珂さん、カップいくつですか?」
「F。あ、こっちも素敵!」

下着売場である。

これまでほとんど外に出ることもなく、身の回りの買い出しも全て使用人任せだった彼女は、自分好みの衣類が選び放題という状況がいたくお気に召したらしい。服から鞄からアクセサリーから、あらゆるファッションアイテムを制覇するつもりのようだ。

すでにその格好も着てきたワンピースではなくなっている。ふわふわと揺れるミニスカートにかっちりとしたジャケットを合わせたスタイルは、しかし確実に先ほどまでの姿よりも彼女に似合っていた。

そして、脱いだ服や買った品物を全部まとめて押しつけられているのが勇哉である。フリル満載の女性下着店の前で頭を抱えさせてしまって、絢世としては少し申し訳なく思うのだが。

彼が荷物持ちに転身させられてしまったので、車椅子を押すのは絢世の仕事になっていた。

「無いわね」
「無いですね……。こっちはどうですか? 同じ黒いので。あとピンクとか。橙珂さん、ピンク似合いますよね」
「そうかしら。……ねえ、勇哉」

両手にFカップの下着を持ったまま、おもむろに彼女は居心地悪そうな勇哉を振り返った。

「どっちがいいかしら?」
「俺に聞くな……」
「まー、せっかく選ばせてあげるって言ってるのに」
「いらねぇよ。勝手にしてくれ」
「何よ、ノリの悪い奴ね。じゃ、両方買おっと」

顔も上げない彼に憤慨し、結局二つともカゴに放り込む橙珂だった。

「絢、あなたはどう? 付き合わせちゃったお礼に何かプレゼントしたいわ」
「え、えっと、あたしは下着よりも、今はおなかすいちゃって。どこかで休憩しませんか?」

絢世の提案に、勇哉の肩から緊張が抜けるのがわかった。軽くつまむ程度にしか食べてこなかったので現実に空腹なのもあるが、それ以上に振り回されっぱなしの彼がいたたまれなかったためでもある。

「そうねぇ、あたしもお昼まだだったし。とりあえずこれだけ買っちゃいましょ」

と、すんなり了承してくれた橙珂は、絢世の押す車椅子でレジまで向かうと、リボンのついた長財布を覗き込んで一瞬硬直した。それまでの買い物では次々に湧いてくる万札で一般人二人をおののかせていたのだが、とうとう資金が尽きたらしい。

何も知らない女性店員が彼女をせかす。

「お客様?」
「……何でもないわよ!」

ばん、と彼女が会計に叩きつけたものを見て、絢世は目を見張る。それは鈍い光沢を放つ、銀色のカードだった。
しかし店員は冷静に、さらにお嬢様を追いつめる。

「クレジットですね。ではこちらにサインをお願いします」
「……目、つぶってましょうか?」
「……いいわよ、もう」

諦めた声音で、差し出されるペンを取る橙珂。わがままな時とは一転してしおれた彼女の様子がなんとも可愛らしく、絢世は浮かんでくる微笑みをこらえなければならなかった。

もういい、と言ったくせに彼女はこちらの目から隠すようにサインをして、購入した下着の袋を抱えて店を後にする。そのふくれっ面に、やっと視線を上げた勇哉が訝しげに眉をひそめた。

「お客様、白石桃子様。カードをお忘れです」

追いかけてきた店員の一声で、お嬢様のフルネームが暴露された。
勇哉は吹き出し、顔を真っ赤にした橙珂は店員からカードをもぎ取ると、理不尽極まりないかんしゃくを起こす。

「少しは空気読みなさいよ、馬鹿!」
「はぁ? 申し訳ありません」

当然状況を飲み込めないままの彼女が店に戻っていった後も、ツボにはまってしまったらしい勇哉の笑いは収まらない。

「もー、勇哉さん笑いすぎですよ」
「っはは、悪い。そうか、なあ、白石」
「……やめてよね、この名前嫌いなの」
「なんで。よくある名前じゃねぇか。白石桃子、だろ」
「やめてって言ってるでしょ!」

橙珂がヒステリックな叫びを上げる。
本気の怒声に、絢世と勇哉の表情も凍り付いた。

「なんでって言ったわね。父方の祖母と同じ名前だからよ。あたしとあたしの母親を、父にふさわしくないからって理由で家から追い出した人よ。あたし、名前を呼ばれる度に、あの人から言われたこと色々思い出さなきゃなんないのよ。わからないでしょう、こんな気持ち」

きつい吊り目を歪めて、自嘲気味に笑う彼女。

「……すまん。わかった、悪かった」
「何がよ。ちょっと聞いただけでわかった風な口利かないで!」
「あのなぁ……」

腰を落とし、車椅子の橙珂と目線を揃える勇哉。

「そりゃ、お前の抱えてるもん全部わかったとは言わねぇよ。だが、言ってくれた分くらいはわかって、気ぃくらい使ってやるよって言ってんだよ。そもそも、何も伝えずにわかってくれって言う方が無茶だろ。だから、何かあったら俺に言えっていつも……」
「いつも?」
「……あんたと会ったのは今日が初めてよ」

絢世と橙珂、二人から疑問の声を聞かされ、勇哉は我に帰ったように目を瞬かせる。

「……悪い。何言ってんだ、俺」
「……もういいわ。絢の言うとおり、お昼にしましょ」

ため息をつく橙珂に、勇哉も立ち上がる。彼自身は、まだ自分の口走ったことが不可解なようで、しきりに首をひねっていた。
うやむやになったような形だが、ひとまずは和解できたらしい。

ほっとした絢世の鞄の中で携帯が鳴った。

「……鳴ってるぞ?」
「あー、いいんです。たぶんどうせまた非通知のだから」
「非通知?」
「最近かかってくることが多くて……。あ、止まった」

取り出した携帯の液晶を確認すると、着信は慧哉からのものだった。悪い事したな、と思っているうちに、その彼からメッセージが届く。

「大丈夫か、萩野。かけ直してやろうか」
「馬鹿ね、非通知にどうやってかけ直すのよ」
「あ、大丈夫です。違う人からだったので。……あたし、ちょっとお手洗いに」

わざとらしい気もしたが、絢世はそう言って勇哉の手に車椅子の持ち手を預ける。虚を突かれた顔の二人を残し、そのまま駅ビルの外まで階段を駆け下りた。

慧哉からのメッセージには『勇哉にばれないようにここまで来れる?』との一文と、どこかへ通じる道順が示されていた。どういうつもりなのかは知らないが、そこで待っているという意味だろうか。

休日の駅前はビルの中以上に混み合っている。人混みにもまれつつ、絢世は指示のあった通りを選んで、徐々に寂れた路地へと踏み込んでいった。

割烹、黒竹。
見た感じは大きな黒い箱である。そこが、慧哉に指定された店だった。
入り口には『準備中』の札が下がっている。
勝手に入っていいものだろうか。もう一度慧哉からのメッセージを読み返してみても、補足の情報はありそうにない。

しばらく掛札を睨んで絢世が立ち尽くしていると、軽やかなドアベルの音と共に、真っ黒な扉が外側へ開かれた。

しかし、出てきたのはお馴染みの俳優ではなく、和服にたすきを掛けた初老の男性である。鋭い目と鷲鼻は、板前というよりも頑固職人といった印象だ。

「…………」
「……あのー、待ち合わせをしているんですけど」
「…………」

口を利いてくれない。

背筋を冷や汗が流れ始める。ひょっとして場所を間違えたのか。どう見ても子どもが一人で来るような店ではないし、食事の値段も高そうである。
これは絶対間違えた、と確信した絢世が踵を返して逃げたくなったとき、板前の男はすっと店内に引っ込み、手首だけで来い来い、と合図をよこした。
入ってもいいようだ。

「えっと、じゃあ、お邪魔します」

ドアをくぐると、外との明度差で一瞬目の前が真っ暗になった。