第24話

 

「やぁ、迷わずに来れたみたいだね」

店内に入ってすぐ、カウンター席の一番奥で微笑む慧哉の姿が目に入り、ようやく絢世はひと心地つく。
仮にも芸能人で恐らくお忍びだろうからと、不審者ギリギリの重装備を想像していたが、彼の格好はジャケットにストールを巻いた普通のものだった。変装といえるのは赤いフレームの伊達眼鏡くらいだ。
板前の男は無言のまま厨房へと引っ込んでしまう。

「制服もよかったけど、私服もいいな。こういう格好、趣味なの?」
「あたし普段もっと適当ですよ。今日は一応、お屋敷だからなって思って。慧哉さん、今日はお仕事無いんですか?」
「ばっくれてきちゃったー」

あっけらかんと笑う慧哉。

「大丈夫だよ、午後の撮影はドッキリ企画だったから。あれはヤスさん……、僕のマネージャーが大根すぎるのが悪い。あんな演技で僕を騙せると思われちゃ困るね」

芸能人を引っかけるいたずら番組はよくあるが、それにしてもこの魔王を騙そうとは、随分無謀なチャレンジをしたものだ。まあ、これは彼の本性を知っているからこそ出せる感想なのだが。

バッグの中の携帯が鳴る。確認すると、差出人は勇哉なのに文面は橙珂という若干気味の悪いメッセージが送られてきていた。中身はこちらの状況を尋ねるもので、トイレを理由に抜け出してきたことを絢世はすっかり忘れていた。

「勇から? 一度電話してやったら?」

とのアドバイスに従い、電話帳から彼の番号を引っ張り出す。ところが、電波がつながった瞬間、慧哉が隣から赤い筐体を奪い取った。

「やっほー、マイブラザー。人質の身柄は預かってるよ。……はい、人質さん、ひと言どうぞ」
「え、えーと、きゃー、助けてー」

棒読みである。
スピーカーの向こうで閉口する勇哉の顔が目に浮かぶようだ。

「・・・・・・なんで慧哉?」
「ドッキリをばっくれたそうです」
「そりゃ、企画側の考えが甘いな」

その点に関しては、彼も絢世と同意見らしい。
ひょい、と再び携帯が持っていかれる。

「ま、そーいうわけだから。返して欲しくば、……そうだなぁ、そちらのお嬢様に素敵なランチをご馳走してあげること」
「萩野は? あ、てめぇまた例の和食屋だな? いい加減場所教えろっての」
「駄目。自分の秘密基地くらい自分で見つけなよ。それじゃあね」

細い指が切断ボタンを押した。返された携帯は、ついでとばかりに何故か電源まで落とされている。
不思議に思って見上げた慧哉が、本物なのか偽物なのかわからない笑みを端正な白い顔に浮かべてみせた。

「せっかくの機会だ。邪魔されずに、君と二人だけで話がしたい」
「はぁ……」

曖昧に頷く絢世。組んだ指の上にあごを乗せた慧哉は、こちらの反応を楽しむように目を細める。

「じゃあまずは、神崎君について聞こうかな」
「キョウちゃんですか?」
「目指せ彼氏ポジションの僕にとっては、君に近しい男友達の存在って結構脅威なんだよ」
「キョウちゃんは……、ただの友達ですけど……」

もっとも、最近の状態を顧みれば、杏輔との関係にはうっすらと影が差しつつある。絢世が出した声は、自分でも驚くほど覇気のないものだった。
そしてその原因は、現在会話をしているその相手に他ならないのだが。

瞼を伏せても、注がれる慧哉の視線からは逃げられない。ガラスレンズ越しでも、剃刀で撫でられるような薄ら寒い感覚がする。

「君が友達だって思ってるのはわかるよ。だから僕は直接、神崎君に聞いたでしょ?」

彼女は君の何なの、と。
繰り返された言葉に、何故か肩が強張った。

「……駒だって言われます」
「友達だって言われたことは?」
「…………」

一度も無い。
いくら昔でも、そんな事があったらたぶん覚えているはずだ。そもそも、出会った当初からひねくれていた杏輔に、子どもらしい素朴な感情表現なんてありはしなかった。

でも、そんなことは前から知っている。
ゆっくり一度目を閉じてから、絢世は慧哉の茶色い瞳をまっすぐに見返した。

「あたしは、あたしがキョウちゃんを友達だって思ってればいいやって、思ってるから、それでいいんです」
「……あ、そう。じゃ、いいや」

ぽかんとした顔を浮かべた慧哉は、意外にもあっさりと引き下がった。
あまりにも簡単に質問が止まったので、逆に絢世の側が戸惑わされる。

「いいんですか?」
「いや、僕はいいんだよ? ただ、なんていうか君、予想以上に手強いよね。あと意外に悪女だ。神崎君に同情したくなってきた」
「慧哉さんがキョウちゃんと仲良くしてくれると、あたしも嬉しいです」
「それ天然だよね? わざと言ってないよね?」
「あ、ごめんなさい。今のはちょっとわざとでした。あたしが嬉しいって言えば、慧哉さん、そうしてくれるかなぁって」
「大丈夫、そこじゃないから……」

額を押さえる慧哉に、下着売り場での勇哉の印象が重なって見えた。こんな仕草も似てるんだなぁ、と妙な感慨に耽る絢世だった。

結局彼は何が聞きたかったのだろう。

「駄目だなぁ。大抵の相手なら言いくるめられる自信があるんだけど、天然の人って何考えてるかわからなくて。ま、そこが面白いんだけど」
「……慧哉さんたちって、翠羽君とは全然顔見知りでも何でもないんですよね?」

突然話題を変えたからか、慧哉は一瞬目を丸くしたものの、さすがというべきか、すぐに答えを返してくれた。

「そうだね。それが?」

頬杖をつき直し、わずかに落ちてきていた眼鏡を押し上げる彼。天然天然と繰り返されて思い出したクローヴィスの横顔を脳裏に浮かべつつ、絢世は副担任である彼について説明する。

「……で、もしかしたら、記憶はなくてもヴィル先生と慧哉さんがお友達だったのかも、とか思ったりして。他にも、ヴィル先生は金髪の女の人を気にしてたり、そう言えば、さっき勇哉さんも橙珂さんに対してちょっと様子がおかしかったかな。慧哉さんはそういうの、無いですか?」

自分の仮説も織り交ぜて話すと、慧哉は少し難しい顔をして黙り込む。

「……覚えが無くは、無い」
「本当ですか? どんな?」
「……けど、これを君に言うと僕のプライドが傷つくからやめておく」
「えー」

不満が顔に出過ぎたらしく、こちらを一瞥した慧哉が唇の端を猫のように吊り上げた。
そして悪戯じみた要求に出る。

「ほっぺにチューしてくれたら教えてあげる」
「まだお友達だからダメです」
「それは残念。じゃ、また今度ね」

今回の取引条件は成立しなかったが、彼は満足そうにくすくすと笑い声を立てるのだった。