第26話

 

すう、と空気を吸うと、森の匂いが肺にしみた。

開け放った雨戸の向こうは玉砂利を敷いただけの細い路地だが、土地を区切った竹垣の先は確かちょうど自然公園の遊歩道だったはずだ。鬱蒼と茂った針葉樹の合間に、子供でもいるのか、赤い風船がちらついている。

「……っと!」

ほんのわずか目を逸らしたその隙に懐へ飛び込んできた切っ先を、勇哉は慌てて竹刀ではじき返す。不意打ちの失敗を見て、唇を尖らせた翠羽が軽快なバックステップで距離を取った。

危ないところだった。視線をまっすぐ相手に戻し、勇哉は気を引き締め直す。ちょっとの油断も許されない戦いだということは、悔しい経験を通してすでに知っている。

翠羽の一撃は軽いが鋭く、腕力の無さを素早さで補う戦法を取るようだ。また、休憩を挟みながらとはいえ、かれこれ一時間は続く打ち合いに疲労の色をほとんど見せないあたり、スタミナも意外とあるらしい。

その手に握られているのは物差しではなく、慧哉がロケ先でふざけて買ってきた木刀を短く切り詰めたものである。
確かにこんな戦い方では、長くて重い竹刀なんか振っていられないだろう。威力が控えめな分、小回りの効く彼はわずかな隙も見逃さない。

この少年に勝つためには、普段力押しで勝負しがちな勇哉も慎重にならざるを得ないのだった。

もっとも、どちらもそれほど気が長いわけではないから、互いに相手の出方を窺うだけの睨み合いは、正直辛いものがあるのだが。

翠羽はまだ動かない。
こちらが痺れを切らすのを待つつもりか、それとも以前のようにフェイントをかける気だろうか。

ざあ、と大きく風が吹いて、鼻をくすぐる緑の匂いが濃くなった。

その瞬間、勇哉は翠羽の肩口を狙って竹刀を振り下ろす。
しかし、これは避けられ、ふっと沈んだ相手は、がら空きの喉元へと鋭い一閃を突き出してくる。

だが。

「……同じ手ぇばっか喰らうかよ」
「…………!」

届かなかった攻撃に、翠羽は大きな緑色の目を見開いた。木刀は勇哉に手首ごと掴まれ、明後日の方向に先端を捻じ曲げられている。

わざと隙を見せ、相手の攻撃を誘ったフェイントである。先日負けた際に翠羽が取った戦法を真似してみたのだった。

「今度は俺の勝ちってことだな」
「……***」

勇哉が口角を上げてみせると、対照的に翠羽は顔を歪める。相当悔しいようだ。
まだ諦めるつもりはないのか、手首の拘束を解こうと不毛な抵抗を続ける彼。

雪辱を果たすことができて良かった。翠羽を預かって欲しいと言われた際に、その間でリベンジすると密かに立てた目標は達成できたわけだ。これで物差しを見るたびに苦い思いを味わうことも無くなるだろう。

感慨に浸りつつ、勇哉は竹刀を持ったままの右手で、翠羽の柔らかい猫っ毛をぐしゃぐしゃとかき回して遊ぶ。さすがに何か抗議らしき声が上がるが、優越感に任せて無視した。

「……ぅおわっ!」

すると、突然膝が崩れて後ろ向きに転倒し、勇哉は硬い床へ強かに頭をぶつける羽目となった。鈍い音が響くとともに、目の前で星が散る。

やられっぱなしの翠羽が反撃に足払いをかけたらしい。滲んだ視界に映る彼は、してやったりと言わんばかりに得意げな表情をしていた。

「……ふっ」

ゆっくりと起き上がり、小さく息をつく。

「……上等だてめぇ! 覚悟しろ!」
「*****!」

その先はただの喧嘩になった。
となれば体格で有利な勇哉が負けるはずもなく、あっという間に翠羽を組み敷いて悲鳴を上げさせる。が、彼はじたばたと抵抗を繰り返し、一向に負けを認めようとはしなかった。

「いい加減諦めろって」
「****ー!」

駄々っ子か。突っ込みを入れるつもりで、すぱんと一発頭をはたいてやる。

「ちょっと、何やってんのよ!」

聞き覚えのある、甲高い声が響いた。

「きゃあ! あたしの翠羽が! 警察呼びなさい、朔、早く!」
「橙珂? お前、なんでこんなとこに」

濡れ縁の向こうに車椅子のお嬢様。後ろに控えた朔夜は彼女とこちらを見比べ、困惑した表情を見せている。
意外な人物の登場に、勇哉はおろか翠羽まで、ぽかんと口を開けて固まってしまった。

確かに、彼女の暮らす豪邸とここはそう離れた場所ではない。が、そんな理由で個人宅に出没されたのでは、近所といえども迷惑だろう。
あと、ちゃっかり「あたしの翠羽」って。

「俺が呼んだんだ。知り合いなんだってな」

襖が開き、着流し姿の師範が顔を見せた。

「師範、予定あるんじゃなかったんすか」
「そうだよ。だから相手はできねぇって言ったろ。道場の方なら使っていいから、思う存分喧嘩してりゃいいよ」
「喧嘩じゃないわよ、虐待じゃないの、これ。ちょっと勇哉、あんたいつまで翠羽捕まえてる気? さっさと離しなさい、この乱暴者!」
「ははっ、相変わらず元気なお嬢さんだな」

からからと笑いながら、師範は手にしたお盆を濡れ縁に置いた。よく冷えた麦茶のグラスが三つと、かりんとうを入れた菓子鉢が載っている。それを見た翠羽が瞳を輝かせるので、嘆息混じりに勇哉はその背中からどいてやった。