第30話

 

「……よっし!」

気合を入れて玄関チャイムを押す。ぴんぽーん、と間延びした音が響くと、内側から勢いよく扉が開かれた。

「いらっしゃい、絢お姉ちゃん」
「莉子ちゃん、久しぶり」

杏輔が母親のお腹の中に素直さを忘れてきたせいで、妹の莉子がこんなに純粋なのだろう。
ひまわりのような笑顔で出迎えてくれた少女に、絢世は微笑みを返す。柔らかな栗色の髪に大きな瞳の彼女を見れば、杏輔がシスコンになるのも頷けるというものだ。

土曜日。
絢世は莉子と遊ぶ約束を取り付け、神崎家を訪れていた。
遊びに来るのは小学生以来だが、赤い屋根も、暴君の住まいとは思えない可愛らしい住居の外観も、当時の記憶のままである。

招きに応じるまま玄関に上げてもらったところで、キッチンからいい匂いがしてくるのに気がついた。

「もうお昼の準備してるの?」
「そう。今日のお昼はラザニアだよ。もちろん絢お姉ちゃんも食べてくよね?」
「うん、期待して来てる」

今年中学に上がったばかりの年ながら、莉子はかなりの料理上手で、杏輔の持参する昼食も彼女の手によるものだった。歳を重ねるごとに神崎家を訪れる回数も減ったことで、最近は彼女の手料理を食べる機会も無くなっていたが、その間にもまた腕を上げたようである。

だが、まだ午前の十時にもならない時間で、昼食の準備とは早すぎるように思うが。そう指摘すると彼女は、はにかみながら答えてくれた。

「実は、絢お姉ちゃんにはごめんなさいなんだけど、莉子、この後先輩とデートなの」
「え、莉子ちゃん彼氏いたんだ?」
「ううん、まだ彼氏じゃないんだけど。絢お姉ちゃんと約束した後に先輩から映画に誘われて、つい行きますって言っちゃった。だから今日は遊べないの。ごめんね」

でも、と彼女は続ける。

「絢お姉ちゃんも、本当はお兄ちゃんと仲直りしに来たんでしょ?」

いたずらっぽい笑顔に、絢世はたじろいだ。どうやら彼女にはこちらの思惑がバレていたらしい。

杏輔との間がぎくしゃくしだしてから、もう随分と時間が経ったように感じる。今まで彼と、ここまで大きな仲違いをしたことはなかった。
何度か仲直りの機会はあったのだが果たすことはできず、ついに我慢できなくなった絢世は、直接彼の家へ赴くことに決めたのだった。

莉子を口実にしてしまったのは悪かったが、半分は彼女の料理が食べたかったというのも本音である。

「ラザニアはオーブンに入れておくから、お兄ちゃんと一緒に食べてね。莉子もそろそろ準備しなきゃ」

上品な青のワンピースに着替えてきた彼女を見送ると、絢世は一人神崎家のリビングに取り残されてしまった。ロングスカートの裾に、どこからか現れた白黒猫のココアがまとわりついてくる。

杏輔はまた勉強しているのだろうか。テストの結果はまだ発表前だったが、彼としては不満の残る感触だったらしい。翠羽を迎えた翌日も重たいバッグを抱え、参考書を開きながら昼食を取っていたのを思い出す。その結果ミニトマトを膝に落としていたことまで思い出して、絢世はこみあげてきた笑いをこらえきれなくなった。

ソファから腰を上げ、天井へ視線を向ける。
ここまで来たのだから部屋まで行ってやろう。部屋の内装が小学生の頃からどんな様変わりをしているか、見てみるのも一興である。そう決めて、絢世は階段を上がった。足元をココアが寄り添うように付いて来た。

だが、ノックをしても部屋からの反応は無かった。

「……キョウちゃん? こんにちはー」

返事がないのをいいことに、そっとドアノブを押してみる。ずいぶん久しぶりに訪れた杏輔の部屋は、ナチュラルなベージュのカーテンが揺れる、居心地の良さそうな空間になっていた。

部屋の主人は、その中央に置かれたテーブルにノートを広げたまま、すぐそばに転がっている。休憩中らしい。耳を澄ますと、規則正しい寝息が聞こえた。

遠慮よりも好奇心が先に立ち、絢世は部屋の中へ踏み込む。

肘を枕にした彼は寝苦しそうな顔をしていた。
座布団を使えばいいのに、と、絢世は注意しながら彼の頭を持ち上げて、すぐ脇にあったグリーンの座布団を手繰り寄せようとする。
ところが、手にはずしりとした重みが返ってきた。見ると、いつの間にか部屋に入ってきていたココアが座布団の上で丸くなり、どいてやるものかという顔でこちらを睨み返している。

「……あちゃー」

代わりになりそうなものは手の届く範囲にはない。途方にくれた絢世は、迷った末、自分の膝に持ち上げた彼の頭を下ろした。今日だけの特別である。

「……ふふ」

ロングスカート越しに髪の毛がくすぐったい。

眼鏡を外した杏輔は、普段の言動からは信じられないくらい、あどけなくて可愛らしい顔をしている。とりわけこうして眠っていると、年齢よりもずっと幼く見えた。眉間にしわを寄せているのも、むずがる子供を連想させて微笑ましい。

テスト勉強に翠羽関係のあれこれと、疲れが溜まっていたのだろう。翠羽の友達探しにも、最初は関わらないと言っておきながら、結局手を貸してくれているのは絢世のせいだ。それがわからないほど、絢世も能天気ではなかった。

彼の目蓋にかかる髪をそっと払いのけながら、絢世の口からは謝罪の言葉がこぼれた。

「……ごめんね、キョウちゃん」