第4話

 

「うかつな言動を慎めと、僕はそう言ったつもりなんだが」

その日の放課後、絢世は保健室へ続く廊下を歩いていた。
もちろん、例の少年の様子を見るためである。

保健室へ彼を運び込んだ風璃がその後どういう手配をしたのか、絢世は知らない。
少なくとも自分のところには何の知らせも来なかったし、隣の席のかえではといえば、チャイムが鳴ると同時に教室を飛び出して行ってしまった。
先週から始めたという、アルバイトのためだろう。

そして、当の風璃はどうやら大事な打ち合わせがあるらしい。
生徒会の面々が一つの教室に集まっている様子が、中庭を挟んだ管理棟側からでも良く見えた。

「……だからなんだ。そんな事、お前が首を突っ込む理由にはなっていないぞ」

そういう訳で、絢世の横に並ぶのは、仏頂面の杏輔だけである。

「でも、誰も来なかったら保健の先生が困っちゃうよ」
「お前が行って、なにかが変わるわけでもないだろうが。それとも、あの不審者を警察にでも引き渡すのか?」

足を止めた杏輔が向けてくる厳しい視線に、げんなりする絢世。

「そんなの……、あの子と話してみないとわかんないじゃん。キョウちゃんだって、話を聞きたいって言ってたくせに」
「言ってない」
「言ってた」
「言ってない」
「じゃあ別に、先帰ってもいいよ?」
「お前一人で行ってどうするんだと聞いている!」

がらんとした廊下に、怒声が響き渡った。

杏輔が、例の少年を気に入らないというのは、わからないでもない。
現れた状況がそもそも異常だし、正体も何も不明なのだから、どう考えても面倒な事態に決まっている。
普通なら、なるべく関わらないように努めるだろう。
たまたま出くわしただけで、解決の義務があるわけでもない。

絢世にあるのは責任感ではなく、ただの好奇心だ。

「そういうとこ、キョウちゃんマジメだよね……」
「……なんだ唐突に。話を逸らすな」
「いいじゃん別に、ちょっとお話するくらいー。あんな可愛い子なんだもん、仲良くなりたいなー、って思ったってさー」
「お前、まさか本当にそんな理由で……?」

唖然として立ち尽くす彼に背を向け、絢世はすたすたと先に進む。
と、後ろから小さな舌打ちが聞こえた。

「……不愉快だ。さっさと済ませて帰るぞ」

開いた距離を大股で一気に詰める杏輔。
絢世が思わず零した苦笑にも、気付いた様子はない。

角を曲がれば、保健室の扉が見える。
入学以来初めて訪れる場所に幾分ドキドキしながら引き戸を開けると、その向こうにいたのは意外にも絢世のよく見知った人物だった。

「ヴィル先生」

呼び掛けに振り返るのは、黒いジャケットにネクタイを緩く巻いた、座っていてもわかる長身の男性。
彫刻めいた端正な顔立ちも目を引くが、何より印象的なのはその瞳である。
整った眉の下に並ぶ瞳は、右が黒曜石のように深い黒、対して左はごく淡い透き通ったスミレ色。

絢世の所属する1年C組の副担任、クローヴィス・ヴィルオールだった。
黒髪が大きくはねているのはご愛嬌である。

「……萩野か。どうした、怪我か?」

首を傾げ、流暢な日本語を発する彼。
外国人であることは間違いないのだが、言葉の壁などクローヴィスの前では何の意味も持たないらしい。

「いえ、そうじゃないんですけど……。先生こそ、どうして保健室なんかに?」
「まさか、教師が職務を放棄しているわけではありませんよね。こんなところで浪費する時間なら、他に有意義な使い方もできるでしょう?」

後ろから続けて入ってきた杏輔が、挨拶もそこそこにいきなり攻撃を開始する。
口調はかなり辛辣だ。
八つ当たりだろうか。

初対面の生徒に突然皮肉を投げかけられたクローヴィスは、しかし動揺の欠片も出さず、その不思議な両目で杏輔を見つめ返した。

「壷なら、まだ焼けない」
「は?」
「違うのか?」

皮肉が通じていない。
というより、会話が成り立っていない。

追い打ちをかけようとしていた杏輔が、ぽかんと口を開けたまま固まった。
返答の中身はともかく、絢世にはだいたい予想がついていた展開である。

担当は英語だが、あらゆる分野において、プロ顔負けの実力を持つと噂されるクローヴィス。
接点の無い杏輔は知らなかったようだが、体育教師にテニスで完全勝利した話や、描き上げた油絵が高名な評論家に絶賛された話など、彼の伝説は数多い。
壷というのは、現在製作中の作品なのだろう。

ただ、そんな万能家にも一つだけ欠点と言える部分があった。
それが、常人にはいまいち理解しがたい、斜め上にぶっ飛んだ思考回路。
要するに天然である。

杏輔の妹、神崎莉子も同じような方向性の人間だが、女子中学生の可愛い不思議発言と、一見クールな成人男性のそれでは、初見の衝撃が違いすぎる。

「私は変なことを言ったか?」

心底不思議そうに尋ねられて、絢世もただ苦笑する他なかった。