第8話

 

瀬城市は山々に囲まれた緩やかな盆地にある。美浜山高校があるのは高台で、目の前の通りをずっと上っていくと学校名の由来となった美浜山の峠に続いている。瀬城市自体は海に面していないが、頂上に登ると隣県の美しい浜が臨めることが、美浜山と呼ばれる理由だそうだ。
反対に通りを下っていくと、瀬城駅を中心とした市街地に出る。杏輔をはじめとして、多くの生徒たちは学校からバスに乗り、電車を使って通学していた。

市街地よりは学校寄りの坂道でバスを降り、三階建てのマンションに案内される。
白一色の無機質な建物の中を先導しながら、クローヴィスが口元を押さえて欠伸をかみ殺すのを見て、絢世は授業中にも彼が眠たげだったのを思いだす。杏輔が眉をつり上げる前に尋ねた。

「先生、寝不足ですか?」

こちらを一瞥し、頷くクローヴィス。

「『すいは』君が寝付いてくれないとか?」
「いや、寝付きが悪いのは私の方だ。夢見が悪い、というべきか・・・・・・。『すいは』は、直接は関係ない」

一つのドアの前で立ち止まると、クローヴィスはそこに鍵を差し込む。
それから不意に、珍しくからかうような光を目に浮かべて、絢世を振り返った。

「それから萩野、言葉が通じない上に言動も突飛なことが多いが、『すいは』は子供ではない。・・・・・・子供扱いすると怒る」

がちゃり、とドアが開いた。
同時に軽い足音を立てて、長い髪の少年が姿を見せる。
『すいは』である。

「*****!」

と、相変わらず何を言っているのかはさっぱりだが、満面の笑顔をこちらへ向けてくれていることからして、どうやら歓迎されているらしい。

「こんにちは、『すいは』君」
「***、****」

挨拶を返す絢世に、彼はすっと左手を差し出した。ちょうどエスコートされるような姿勢になり、思わず頬を緩めながら応じようと伸ばした絢世の手が、届く直前でぱしんとはたき落とされる。
杏輔だった。

「鳥頭か」

たいそう虫の居所が悪い顔の暴君に、絢世が憤慨したのは言うまでもない。

招き入れられた部屋は飾り気がなく、主の性格がよく現れていた。
入ってすぐの空間がダイニングになっており、その奥がテレビとソファのあるリビング。グレーのカーテンは開け放たれており、夕暮れの近づく空が見えている。右手のドアの向こうが寝室なのだろう。

生活感の少ない空間の中、シンプルなダイニングテーブルの上だけが妙に雑然としていた。積み重ねられたコピー紙の束は、なにやら一面に色とりどりの絵が描かれているようだ。

「すまんな、散らかっている」

大量の紙をテーブルの端へ追いやり、クローヴィスがそれぞれの前に紅茶のカップを置いた。

「すごい量・・・・・・。これ、落書きですか?」
「『すいは』に週末、いろいろ描かせてみた。私の理解が及ばなかったものも多いが、新たな情報が得られたものもある。例えば」

手を伸ばし、一番上に乗っていた紙を取り上げるクローヴィス。そこにはまず点々と記された何らかの模様と流麗なアルファベット、そして漢字で「翠羽?」。

紅茶を冷ましていた『すいは』本人が、クローヴィスの隣から模様を指して、「*****、すいは!」と声を張った。

その様子を横目に、杏輔が呟く。

「これが文字だというわけか。下の英語は先生ですよね」
「ああ。・・・・・・付け加えるなら、神崎、ドイツ語だ」
「・・・・・・っ、英語教師のくせに・・・・・・!」

思わぬところで赤っ恥を晒した杏輔の背を、慰めるつもりで撫でてやる絢世。

「習ったことないんだから仕方ないって。先生、オーストリアでしたっけ?」
「幼い頃は。のちにオーストラリアに移ったが」
「紛らわしい・・・・・・。で、意味は」
「『目』、『髪留め』、『トンボの羽』。前の二つは『すい』、残る一つは『は』を表しているらしい。下の漢字は私が適当に当てはめたものだ」

解説するクローヴィスの傍らで、積まれた中から紙を一枚拾い出した『すいは』が、裏の白い面に胴体の細い昆虫を描く。その羽部分をぐりぐりと強調し、線を引いて、目前の紙に書かれたものと同じ記号を書き加えた。

「・・・・・・はっ、トンボには見えませんね。異様に細い飛行機かもしれないし、『すい』だって色ではなく形を表すのかもしれない」
「キョウちゃん、今日なんか嫌なことでもあった?」

とげとげしいのはいつものことだが、先ほどから妙にそれが顕著だ。問答無用で帰ろうとしないだけ、まだ堪忍袋の余裕はあるようだが。
まあ、最初から警戒していた『すいは』が相手なので仕方がないのかもしれない。クローヴィスも苦手なタイプだろうし。

と、他に心当たりもない絢世はそう見当をつけて、これ以上彼の言動には触れないことに決めた。どのみち、そんな理由では自分にどうこうできるはずもない。

「じゃあ、暫定『翠羽』君ですね」
「人の名前に暫定があるか。はっきりしろ」
「そうなるな。名前の他は・・・・・・、年齢か。16だそうだ」
「・・・・・・他に聞くことがあるでしょう。住所とか、何者なのかとか」
「へぇ、あたしの一個上なんだ。何となく年下だと思ってました」
「・・・・・・」

笑顔のまま、さくっと杏輔を無視して話しを進めてみたところ、いつもならもう少し食い下がるはずの彼が予想以上の早さでくじけたらしかった。
仏頂面で紅茶をすする彼と、興味津々な顔でその様子を眺める翠羽の対比がおかしい。

遠く、学校のチャイムが響く。そろそろ日も落ちる頃だろう。
そろそろ暇を告げようかと絢世が口を開くより早く、クローヴィスがもう一枚の紙を拾い上げて寄越した。

それはコピー紙ではなく雑誌の切り抜きで、映っているのは絢世もよく知る芸能人である。

「・・・・・・三条慧哉? 先生、ファンなんですか?」
「翠羽が気にするのでな」

三条慧哉は日仏ハーフの若手俳優で、きらきらの金髪と明るい茶色の瞳がトレードマーク。記事は彼が主演する探偵ドラマの新シリーズを特集していた。
枯れ葉色のコートを羽織った慧哉の写真の下には「朱玉?」と書き込まれている。

「・・・・・・しゅぎょく」

記事をのぞき込んだ翠羽がぽつりと呟く。

「まさか、三条慧哉が仲間だとでも?」
「わからん。ただ、私が『リェール』であるのと同様に、翠羽にとって三条慧哉が『朱玉』であるというだけだ」

翠羽をじっと注視しても、それ以上の答えは返ってこない。
切り抜きの中の三条慧哉もまた、依頼人へ向かって微笑みかけているだけだった。