「実験体と会いたい?」
手術後の経過報告に訪れた遺伝子研究所で、リェーリアスの言葉に所長は眉を吊り上げた。
「何のためにですか?」
「知りたいだけだ。この目の、前の持ち主がどんな人物なのか」
自身の左目に手をやるリェーリアス。先日まで、帝国人らしい漆黒だった瞳は、今は夕暮れ時の空のようなスミレ色に染まっている。
昨年、ウォーリゲン聖帝国第4代皇帝ゲルハルトが崩御してから、リェーリアスの周囲は大きく変わった。ゲルハルトの残した娘と、実弟である自分と、どちらが次の皇帝となるかで王宮は真っ二つに分かれてしまっていた。
リェーリアス自身には、皇帝の座を狙う野心などさらさら無く、むしろ姪の後ろ盾となれるような立場を希望したのだが、それでは周りが納得しない。そこで物理的に、帝国人の証である漆黒の双眸を失うことで、政権争いから自ら退いたのだった。
この施術は、帝国が力を入れている遺伝子研究の一環であり、言うなれば人体実験だった。西の自治区に暮らしている虹族という人々は、血が繋がった親子でも瞳の色がまるで違うという特質を持つ。その遺伝メカニズムを解明することで、この分野の発展に大きく貢献できる。悪くすれば失明の恐れもあったが、周囲の声にうんざりしていたリェーリアスは、今思えば珍しく自棄になっていたのかもしれない。
リェーリアスが受けたのは、虹族の1人と瞳の遺伝子を交換するという実験だった。術後、鏡で確認した左目の、心を洗われるような美しいスミレ色を見て、単純に元の持ち主を知りたいと思った。それだけである。
所長は、頭痛を堪えるような表情で長いため息をついた。
「閣下、まずは訂正をお願いいたします。実験体はヒトではありません。我々は、亜人と呼んでおります」
「亜人?」
「ええ。ヒトに極めて近いがヒトとは異なるものです。動物の一種と捉えていただければよろしいかと」
リェーリアスは首を傾げた。
「しかし、文化を持ち、我らとは通じないが言語も話すのだろう? 他の外国人とどこが違う?」
「遺伝子です」
それが当然と言わんばかりに、淡々と告げる所長。
「閣下ご自身がその身で試されたように、……便宜上彼らと呼びますが、彼らは我々とは違う遺伝子を持っている。それは、例えば帝国人とセメディア人の差とは違うのです。むしろ、ヒトとサルの違いに近い。それほど大きな差なのです。いくら外見が似ていようと、これではヒトとは言えないでしょう」
「そうか。では、その亜人が見たいと言えば、許可が出るのか?」
リェーリアスが食い下がると、所長は一旦目を逸らし、外した分厚い眼鏡を拭き始めた。
「なぜそこまでこだわりになるのですか?」
「気になるだけだ。これほど美しい色をした瞳の持ち主だろう。会ってみたい」
「ああ……」
眼鏡をかけ直した所長のレンズ越しの瞳は、下世話な歪み方をしていた。
「そういうことでしたら、どうぞ。もっとも、ペットにされたいと言われても困りますがね」
渡してもらった鍵を手に、白い廊下を進む。透明なガラスの向こうには、研究のための実験動物が入った檻が並んでいた。ここまではリェーリアスも何度か訪れたことがあるが、その突き当たりにある分厚い扉の向こうはまだ未知の領域だった。
除菌室を通り抜け、白い扉に鍵を差し込む。かちゃり、と意外に軽い音を立てて扉が開く。
女性が1人、部屋の中心に立っていた。
比喩ではなく天使かと錯覚した。無機質な電灯の光を反射するのは、緩やかに波打つ淡い金色の髪。畳んだ翼のようにも見えるそれが、均整の取れた体を飾る唯一のものだった。見開いた瞳は、右がスミレ色で左が黒。紛れもない、リェーリアスと同じ実験を受けた証である。
しばらく惚けたように彼女を見つめていたリェーリアスは、やがて自分がひどく失礼な真似をしていることに気づいた。
「す、すまない。こんなつもりでは……。出直そう」
慌てて扉を閉めようとすると、柳眉をぎりっと吊り上げた彼女がそのままの姿でずんずん歩み寄ってきて、あろうことかリェーリアスの両耳を掴んだ。
当然、リェーリアスは彼女に正面から向き合うことになる。
「*****!」
何やら非常に怒っているようだが、言葉がわからない。しかし、その前にこの体勢を脱さないとまずい。真っ白な肢体からなんとか目を逸らしつつ、リェーリアスは相手を宥めようと試みる。
「すまない。怒るのももっともだ。一旦出るから、その間に何か着てくれ」
「****!」
通じなかった。むしろ、こちらが何か言うほど、火に油を注いでいる気がする。一向に放してもらえそうにないため、リェーリアスは諦めて、自分の着ていた白いコートを脱いで彼女の肩へ掛けた。
「すまない……、羽織っていてくれ」
「……*****?」
目を丸くした彼女はゆっくりとリェーリアスの耳から手を放すと、力が抜けたようにその場に膝をついて、涙を流し始めた。
「人間扱いされたのって久しぶりだったの」
後に紫響は、リェーリアスが贈ったドレスを広げながらそう言った。
「所長が、亜人と言っていた。その事か?」
「あたしにはよくわかんないけど。検査かな? 事あるごとに脱がされるし、あの人たちはそれをなんとも思わないみたいだったし。それじゃあ最初っから裸でいてやれって、突っ張ってたわけ。そこに君が来てあんな恥ずかしがるもんだから、何を今更って怒ったの」
衣擦れの音に笑い声が混ざる。それを背中で聞きながら、よく笑えるものだとリェーリアスは感心していた。
「これは君の趣味?」
問われて振り返ると、紫響が派手な赤い下着を広げている。取り急ぎ女性の衣服一式を取り寄せたのだが、その中に混ざっていたらしい。
「見せるな。侍女に任せたものだ」
「そうだね。リェーリアス君なら白か黒な気がする」
「さっさと着てくれ。嫌なら取り替える」
「これでいいよ。ありがとうって伝えておいて」
楽しそうな様子から察するに、どうやらからかわれただけらしい。ため息をつくリェーリアス。
「あ、それとさぁ。リェーリアスって名前どうにかならない? ***んだよね」
「すまない、何と言った?」
「名前が***」
もう一度同じ単語を繰り返したあと、紫響は両手をいっぱいに広げてみせる。
「***」
次に、拳ひとつ分ほどの幅を示した。
「****」
『長い』と『短い』だな、と理解して、リェーリアスは彼女から覚えた虹族語の語彙にそれらを追加する。
「名前が長い、か。好きに呼んでくれて構わんが」
「それじゃあ、何か呼び方を考えておくね。……ところで着方がわかんないんだけど、君が着せてくれるのかな?」
朗らかに付け足されて、頭を抱えたリェーリアスは次は侍女を連れてこよう、と心に決めた。