第18話

 

花嵐の翌日から、白羚は眠り続けていた。翠羽が心配して四六時中そばについているところへ、碧珠もなるべく顔を出すようにしている。とにかく何か動いていないと、暗い淵へ沈み込んでしまいそうで怖かった。

その帰りには毎回、いつも町外れの坂道を上る。高台だというのに辺りは鬱蒼とした木々に覆われ、見晴らしは良くない。ここは、今の治安部である玄武衆の頭目が、橙珂を養うために建てた屋敷だった。

橙珂は、玄武衆の手で壊滅させられた先代治安部、朱雀衆の頭目が残した一人娘である。当時まだ幼かった彼女は、殺されなかった代わりに、逃亡や復讐を防ぐためと両足首から先を潰され、ろくに歩けもしない状態で、親の仇が用意した環境で孤独に育った。

そんな橙珂の屋敷へ、たまたまこの近くで遊んでいた碧珠が面白半分に忍び込み、彼女と出会ってからもうずいぶん経つ。黄雅が何か言ってくれたのかもしれないが、玄武衆から見て見ぬふりをされているのをいいことに、それ以来碧珠は橙珂の元へ通い続けていた。今以上にわがままで尖っていた彼女が少しずつ柔らかくなったのは、朱玉や翠羽とも交流するようになったからだろうと思う。

紫響の事件以降、彼女は昔に戻ってしまったようだった。こうして訪問する度に、何度罵られたことか。それでも碧珠は今日も、裏口から橙珂の部屋へ面した庭へ回る。ここまで思い入れるのは、友人だからという理由だけではないことは自分でもわかっていた。

「橙珂」

障子はぴったりと閉じられていた。声をかけると、中から衣ずれの音がする。

「入るぞ」
「起きるから待って」

すでに午後だが、こんな時間まで眠っていたことよりも、拒絶されなかったことに碧珠は驚く。最近はもっぱら、縁側で門前払いを喰らっていたのに。

頃合いを見計らって、障子を開ける。部屋の中は薄暗く、空気も淀んでいるようだった。

「ひでぇな」

正直な感想を言うと、帝国製の寝台に腰掛けた橙珂が、気怠げな目で見返してくる。いかにも起き抜けらしく、長い髪はほつれ、薄い浴衣に肩掛けを羽織っているだけのひどい格好だった。

「何しに来たのよ」
「よく言うぜ。俺が来なきゃ、お前何にもしねぇだろ」
「いいでしょ、何にもしたくないんだから」

膝を抱える橙珂を横目に、これまた帝国製のふかふかとした椅子に腰掛ける碧珠。玄武衆頭目のせめてもの心遣いか、この部屋の調度は一級品が揃っている。

まともに彼女と向かい合うのも久しぶりだ。何を話したものかと考えあぐね、しばらく碧珠は口を閉じたままだった。
そのうちに、橙珂の方から小さく問いかけられる。

「……みんな元気?」
「元気じゃねぇな。ぱっと見普段通りなのは朱玉くらいだ」
「そう。……そうよね」

それきり、再び静寂が訪れた。

紫響の事件が自分たちに与えた影響は大きかった。翠羽は明らかに無理をしているし、朱玉は朱玉で何か思うところがあるようで、時々じっと考え込んでいる。彼女とそこまで親交のなかった碧珠達でさえそうなのだから、黄雅やリェールが受けた衝撃は計り知れない。そして、未だに目を覚さない白羚も痛ましかった。

「あんまり1人でいると参っちまうぜ。明日は早めに来るから、一緒に翠羽のとこへ行かねぇか?」

気を取り直すように投げかけた言葉は、しかし橙珂には届いていないようだった。
返事の代わりに、問いかけをされる。

「……あんた、身近な人が死んだこと、ある?」
「……まだねぇな」
「そう、わかった」

続くため息で、彼女に落胆されたのがわかった。

「もう帰っていいわよ」

普段の碧珠なら、こうした彼女の理不尽には従うばかりだっただろう。
しかし、今日は違った。せっかく久々に顔を見ることができたのだから、もう少し、と欲張る気持ちが出てしまった。

「ねぇもんは仕方がねぇだろ。なんだったんだよ」
「いいから帰って」
「おい、そんな言い方」
「帰ってって言ってるでしょ!」

叫び声と共に、クッションが投げつけられる。それは難なくかわしたものの、流石に碧珠も苛立ちが募っていた。

「おい、そこまですることかよ」
「どうせあんたにはわかんないわよ!」
「ああ、わかんねぇな! 何も言ってくれねぇんだから当たり前じゃねぇか」
「だから、あんたじゃダメだって言ってるの!」
「この……」

自分の中で何かが弾けた。立ち上がった碧珠は、目を見張る橙珂の手首を掴み、華奢な体を一息に寝台へ押し倒す。
抗議の声は、唇を唇で塞ぐことで黙らせた。細い腕で精一杯もがく彼女だが、力の差は歴然としている。

やがて、抵抗が弱くなった頃、ようやく碧珠は橙珂を解放する。代わりに、浴衣の襟元に手をかけた。

「やめ……」

青ざめた橙珂の震える声。それでようやく、碧珠の中に落ち着きが戻ってくる。
吐き出した声は、自分でも信じられないほど弱々しかった。

「俺は、お前のことが全部知りたいんだよ」

剥き出しになった首筋に顔を埋める。甘い香りが鼻をくすぐる。

「本当はこの先も知りたい。お前が嫌がるならやめるけど、それなら他のことは全部ちゃんと教えてくれ。……守ってやりたいんだ」
「碧珠……」

心臓の鼓動が聞こえる。同じように、自分の心音も彼女へ届いているだろうか。

碧珠の背中に、橙珂の細い腕が回された。