第7話

 

決着は一撃でついた。
弾き飛ばされた剣が舞台に落ちて、甲高い音を立てる。リェールは桜の花びらを運ぶ風に目を細めつつ、自分の長剣を鞘に収めた。ゆっくりと紫響を振り返ると、彼女はこちらに背を向けたまま、空になった自らの手を見つめていた。その衣の裾を、風がなぶる。

彼女が黙ったまま微動だにせず、また静まり返った会場からも痛いほどの視線を感じ、珍しくリェールの首筋を冷や汗が伝った。もしや、自分だけが知らないルールがあり、紫響を勝たせねばならない必要があったのだろうか。

「……紫響」

と呼びかけたリェールの声は、しかし次の瞬間檜舞台を包み込んだ歓声でかき消された。賞賛の声や拍手、中にはなぜかアンコールの呼び声まで聞こえる始末。どうやら、先ほどの心配は杞憂で済んだらしい。

ところが、依然として紫響に動きはなかった。俯き気味の後ろ姿に、まさか傷でもつけてしまったかと、大股で歩み寄るリェール。

「紫響」

その時、不意に彼女がこちらに顔を見せ、同時に振りかぶった右手が視界に入った。ぱあん、と弾けるような音ともに、左頬に鋭い痛みが走る。平手打ちを受けたのだと頭が理解した時には、衝撃で宙を舞った軍帽が足元へ落ちていた。

「リェール君の……っ」

顔中を真っ赤に染めた紫響は、両目に涙まで浮かべている。

「リェール君の、バカぁ!」

突然の罵倒にリェールが面食らっているうちに、紫響は身を翻すと檜舞台を飛び降りて、脱兎のごとき勢いで駆け去ってしまった。どっと湧いた観衆の中、ひりひりと痛み出した頰を抑えて、リェールはただ立ち尽くすしかなかった。

「はいはい、すみません、通りますよっと。リェールさん、お疲れ様でした」

解散していく人混みをかき分けて、黄雅が舞台へ上がってくる。

「頬っぺた大丈夫ですか? って、くっきり手形ついてるし。ほら、座ってください」
「黄雅、紫響はなぜあんなに怒っていたんだ」
「ただの負けず嫌いですよ。あの人、剣では負け知らずでしたからね」

促されるままに腰を下ろしたリェールの左頬に、手際よくガーゼを貼っていく黄雅。確かに、流れるような紫響の剣技には、彼女の自信が満ち溢れていた。リェールも剣を振るう機会はそれなりに多い方だったが、今回ほど充実した対戦はこれまでになかった。相手が紫響だったせいも大きいかもしれないが。

手当を終えた黄雅の後ろから、小柄な人影がゆっくりと舞台上に姿を現す。先ほど紫響に舞を認めた老婆だった。彼女の姿を見て、黄雅はリェールの正面を空ける。

「素晴らしい剣試合だったねぇ、帝国からのお客人。女神様もお喜びじゃろうて」
「……そうであれば良いのだが」

皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべた老婆は、背後に控えた男に何かを指示する。歩み出た彼は膝をついて、手にした包みをリェールの前に差し出した。

「これは?」
「良いものを見せてくれたお礼だよ。受け取ってくれるかえ」
「……私がもらっていいのだろうか」
「婆様が良いと言ってるんだから、良いんですよ」

口を挟んだ黄雅の笑顔に押されて、躊躇いつつも手を伸ばして受け取った包みは、豪奢な錦の袋に入った一振りの短剣だった。見事な象嵌で飾られたそれは、実戦用というより観賞用に近いが、鞘を払って光にかざした刀身は薄く、きらりと鋭い輝きを放つ。

「……良い品だな」

長剣を得意とするリェールが短い剣を扱う機会は滅多にないが、持っておけば何かの役に立つこともあるだろう。丁重に礼を述べると、老婆は満足そうに頷いて、舞台を降りて行った。

続いて、見覚えのある白金色の頭が、よろよろと上がってくる。一瞬、紫響が戻って来たのかと思ったが、それは三つ編みを揺らした白羚と、虹族の若者たちだった。中には、黄雅の弟の姿もある。翠羽といったか。

「白羚、翠羽たちと一緒だったんですね」
「藍寛たちにちょっかい出されてたから、助けたんだ」
「……翠羽、あまり危険な真似は……」
「兄さんには言われたくない」

つんと唇を尖らせる弟に顔をしかめてみせてから、黄雅は美しい少女を背負った体格の良い青年に声をかける。

「いつもすみませんね、碧珠。助かります」
「いいよ、黄雅さん。翠羽の無茶には慣れてる。俺、今日は何もしてねぇしな」
「そうね、何もしてないわね」
「……そこ強調しなくていいだろ」

憤慨する青年に、虹族たちが笑い合う。賑やかだった。
それを外から眺めていたリェールの肩が、横からとんとんと叩かれる。振り返ると、眼前に白い軍帽が差し出された。

「はい、これ。大事なものでしょう?」

にっこりと人好きのする笑顔を浮かべた、赤い瞳の青年だった。

「僕は朱玉。よろしくね、『閣下』」

続いて紡がれた言葉が、リェールの思考を凍らせる。流暢な帝国語だった。

「……どこでそれを」
「蹄鉄に蔦の印章を使うのはあなただけでしょう? 帝国の外だからって、油断しないほうがいいよ、『閣下』?」

くすくす、と楽しげな笑い声を残して、朱玉と名乗った青年は仲間たちの元へ戻って行った。背筋に冷たいものを感じながら、その後ろ姿を見送るリェール。手渡された軍帽に留められた、蹄鉄に蔦の紋章が彫り込まれた銀色のブローチが、陽光を反射して鈍く輝いていた。