第8話

 

夜空にぽっかりと浮かんだ満月を、散りゆく桜の花びらが幻想的に彩っている。
帝国では、人の心を狂わせるなどと忌まれる風潮にある月だが、虹族たちにとっては闇の女神の象徴として親しまれているらしい。桜の立ち並ぶ丘には月見のためのテラスがいくつも設けられ、酒を酌み交わしながら談笑する人々の姿が遠目に見られた。

「またここで月が見られるなんて、思わなかったなぁ」

身軽な格好に着替えてきた紫響が、満月を掬うように手を差し伸べる。酒の入った小さな瓶と盃を三つ手にした黄雅が、彼女を挟んでリェールの反対側へ腰を下ろした。

「俺も、あなたとまたこうしてお月見ができるなんて思いませんでした」
「ここで話したんだったよね。あたし、帝国へ行くよって」
「まさか本当にやるとは思いませんでしたけどね」

当時を思い出しているのか、苦笑いを浮かべる黄雅。虹族自治区と帝国の行き来は禁じられているので、十年前の紫響は不法入国をしていた。その結果、あんな場所に囚われる羽目となってしまったのだが、彼女はあくまでも楽しそうに語る。

「色々あったけど、良かったよ、帝国。戻ってくる間にリェール君があちこち連れて行ってくれたの。オーロラなんて初めて見た」
「オーロラって何です?」
「すごく寒いところでね、光の帯が夜空で揺れるの。なんて町だっけ?」
「クレイナ。帝国最北の町だ」

南北に領土の広い帝国は、地方ごとに気候もまるで異なる。虹族自治区から離れたクレイナに立ち寄ったのは追っ手の目を欺くためだったが、結果として紫響の思い出に残る旅になっていたようだ。

黄雅が等分に注いでくれた透明な酒に口をつける。すっきりとした味わいで飲みやすい。

「リェールさん、どうです? お口に合いますか?」
「ああ。上質な水を飲んでいるようだ」
「おっと、もしかして強い人ですね」
「リェール君、ザルだよ。全然酔わないから面白くなーい」
「別にあなたを楽しませるためにお酒飲んでるわけじゃないですからね」

早くも一杯空けた紫響の盃に、黄雅が酒を追加する。そこにひとひらの花弁が舞い落ち、紫響は嬉しそうに微笑んだ。
旅の中で何度か彼女と酒を飲む機会もあったが、気分が高揚しているのか、今日は酔いが早いらしい。上機嫌の彼女に、黄雅が問いかける。

「しばらくはこちらにいるんですか?」
「うん。今度はあたしが、柳藩の良いところいっぱい紹介してあげるんだ」
「それは良いですね。俺も協力しますよ」
「そうだな、楽しみにしている」

ここはどうだ、あそこはどうだ、と計画を練り始める二人。リェールはその会話を聞くともなしに聞きながら、酒杯を傾ける。
虹族自治区の中までは、なかなか帝国からの追っ手も入ってこられないだろう。いつ見つかるかという、緊張で張り詰めた旅から解放されたことは、知らず知らずのうちに強張っていたリェールの心もほぐしたようだった。

不意に、真面目な表情に戻った紫響が、リェールを見つめる。思わずどきりとするほどの強い意思を宿した、自分と同じ漆黒とスミレ色の瞳。

「リェール君」
「……なんだ」
「幸せになってね。あたし、リェール君と白羚には、絶対に幸せになって欲しいの」

空になった酒瓶を片手に、黄雅が席を立った。それを横目に見送りつつ、リェールは言葉を返す。

「……それなら、まずお前が幸せになって欲しい。お前の幸せはなんだ」
「ふふ、リェール君があたしを好きになってくれること」
「それなら問題ない。私はお前が好きだ」
「なんか、あたしの求めてる好きと違くない?」
「そんなことはないと思うが」

紫響は不服そうだが、あいにくと、リェールの中にこの気持ちを表現できる単語は他に無かった。虹族語は難しい。

「それなら、証拠ちょうだい? 帝国人は好きな人に何をするの?」

一転して挑発的な笑みを浮かべて見せる紫響に、リェールはたじろぐ。
彼女に触れる権利が自分にあるのか。彼女を苦しめてしまったのは、自分と同じ帝国人であるというのに。

「あたしが誰を好きになるかはあたしが決める。相応しくないなんて決めつけないで」

はっきりと告げられた言葉が耳を打った。こちらの悩みなど、彼女にはお見通しらしい。本当にいいのか、と問いかけてくる自らの迷いに、リェールは一時、蓋をする。
身を寄せてきた紫響の背に腕を回し、互いの唇を重ねる。狂ったように舞い散る桜と同じ、優しい香りが鼻腔をくすぐった。