カレーを作った翌日から、伊吹家の夕食はみんなで集まるのが恒例になった。仕事があるというドクターや柚子妃は不在にすることもあったが、都合がつくときにはどこか安らいだ表情で食卓についてくれる。
なによりも、それを風璃が喜んでくれたのが、かえでには嬉しかった。
奇妙な居候生活は何事もなく続いている。相変わらず両親に探されている気配は無く、中学の友人にも怪しまれてはいないようで、それをいいことに、かえでは緋雨のおつかいを引き受けた。
スニーカーの紐を結んでいると、玄関の向こうに人の気配が近づいてくる。
「先輩、それは、いいですよとは言えないんですが」
風璃の声である。誰かと電話をしているらしい。盗み聞きをするわけにはいかないと思いつつも、しっかりと結んでしまった靴紐が解けず、かえでは動くことができなかった。
風璃の声は続く。
「俺はお断りしたはずです。卒業までの期限付きでって言われても、尚更先輩の恋人になるわけにはいきません。……それじゃ」
からりと引き戸が開かれ、疲れた顔の風璃と目があった。バツが悪そうに視線を逸らす彼。
「聞こえ、……たよな」
「……ごめん」
「いや、俺が悪いんだ。はっきり断ったつもりだったんだけどな……」
はぁ、とため息をつきながら、風璃が玄関に入ってくる。夕焼けのオレンジ色が銀髪に当たって、きらきらと輝いていた。相変わらず、彼は美しい。
「やっぱり、風璃さんってモテるんだなぁ」
心の中で呟いたつもりが、うっかり声に出た。屈みかけていた風璃が、聞き咎めるように顔を上げる。思いもよらない鋭い視線を向けられ、かえでは慌てて弁解した。
「あ、その、見た目ももちろんだけど中身もすっごくいい人だし、絶対女の人が放っとかないよね、っていう……」
「どっちにしても、面倒なものは面倒なんだよ」
「面倒って……」
気の良い彼から出たとは信じられない台詞に、唖然としてしまう。
半年ほど前に、かえで自身もずっと想いを寄せていた相手に告白し、玉砕していた。その彼にはすでに恋人がいたために断られたのだが、もし面倒だからなんて理由で拒否されていたら、きっと立ち直れないに違いない。
「そんな言い方ってないでしょ」
憤慨が口をついて出た。
「その先輩だって、風璃さんのことが好きだから告白してくれたんでしょ。断るにしても他に言いようがあるじゃない」
「お前には関係ないだろ」
「ちょっと美人だからって、調子に乗ってるからそんなひどい言葉が出てくるんだ。あたしたちがどんな思いで告白するかなんてわかんないんでしょ!」
「事情も知らずにそっちの事ばっか押し付けるんじゃねぇよ!」
言いすぎた、と思った時にはすでに遅かった。風璃から返ってきた大声に身が竦む。しかし、そんなかえでを見た彼も、すぐに冷静さを取り戻したようだった。
謝らなければ。だが、謝罪の言葉は喉の奥で引っかかったように、なかなか出てこなかった。
「風様、かえでさん? どうかなさいました?」
台所から、緋雨の声が響く。なんでもない、と応えた風璃は、かえでに背を向けて引き戸に手をかけた。
「怒鳴って悪かった。ちょっと頭冷やしてくる」
「あ……」
止める間も無く、出て行ってしまう彼。結局、かえではつっかえた言葉を飲み込む他なかった。