第8話

 

「結局言えなかったなぁ……」

その日の夜、温かいお湯に肩まで浸かりながら、かえではため息をついた。もちろん、夕方風璃と喧嘩をしたことを思い出してである。

風璃はあの後、かえでがおつかいに行っている間に戻ってきたらしかったが、夕食時に顔を合わせても心ここにあらずといった印象で、ついに話しかけるきっかけを掴めなかった。その後はすぐに自室へ引っ込んでしまったため、追いかけるわけにもいかず、結局ずるずると謝罪もできずに今日が終わってしまいそうである。

大きくため息をつくと、吸い込んだ冷気が喉を刺す。伊吹家の浴室は驚いたことに大きな露天風呂だった。湯気の中から降り注いできそうな満天の星を見上げていると、浴室の戸が引き開けられる音がする。

「あら、かえでちゃん。お隣入れてくれる?」

ほっそりとした体をタオルで隠した、風璃の2番目の姉、柚子妃だった。彼女は仕事で夜遅いことも多く、まだ数回程度しか話したことがない。慌てて頷くと、かえでは場所を空けた。

「ありがと。今日は冷えるわねぇ」

お湯で体を流してから、かえでの隣に滑り込む柚子妃。風璃も美人なのだが、彼の姉たちもそれぞれに綺麗な容姿をしている。大きな金色の瞳を囲む長い睫毛に、かえでは見惚れた。

「風ちゃんとは似てないでしょう?」

くるりとその眼がこちらを向く。思っていたことを言い当てられて、かえでは驚いた。

「ご、ごめんなさい」
「謝ることじゃないわ、事実だもの。あたしたちと風ちゃんは血が繋がってるわけじゃないのよ」

気になっていた答えをあっさりと告げられ、かえでの頭が混乱しそうになる。

「柚子妃さん、それ、あたしなんかに話しちゃっていいんですか」
「うん、隠してないし。っていうか見れば予想つくでしょ?」
「はい、なんとなく……」

容姿だけの話ではなく、風璃に対する緋雨の態度からも、ただの兄弟ではないことは察することができた。

「風ちゃんは、育児放棄されたわけね」

とんでもない単語が出てきた。目を丸くして柚子妃を見返すと、彼女は両手でお湯を掬いながら続ける。

「風ちゃんのお母様は、風ちゃんを産んですぐ育児に飽きて、担当だったドクターにあの子を押しつけて消えちゃったの。それで、同じ日にお産をしていたあたしたちの母親が、風ちゃんも一緒に引き取ったのね。あたしたちの故郷じゃ、風ちゃんのお母様は偉い人だったから、うちの親はあの子を大事に育てて、それがひさ姉や朔にも移ったの。あ、朔にはまだ会ってないか。まぁ、わかりやすく話すとそんな感じよ」

さっぱりと告げてくる柚子妃だが、その中身はまるで一昔前のドラマである。まず、どんな理由であれ、親が子どもを置いていなくなってしまうというのが、かえでの常識では信じられなかった。

「お母様は最近になって、うちにもたまに顔を出すようになったわ。風ちゃんが嫌いなわけじゃないのよ。子どもの相手が面倒だっただけで」
「……それ、すごく勝手だと思います」

そんな無責任な母親がいるだろうか。かえでの心の中では何かがふつふつと煮え始めていたが、柚子妃がそこに水を差す。

「あなたはいい子だけど、ちょっと独りよがりね」
「え?」
「自分で許せないって思ったら、人にもそう言っちゃうんじゃないかしら。それで風ちゃんとも喧嘩になったんじゃない?」
「それは……」

その通りである。しかし、人からの好意や、産んだ子どもに対しての責任を、面倒だなんて理由で片付けるのは、やはり許せないのが普通だと思う。

「まぁ、それを言ったら、普通、中学生の女の子はよそのお家に居候なんてしちゃダメよね」
「うっ……」

痛いところを突かれて反論もできない。そんなかえでを楽しそうに見ながら、柚子妃は続けた。

「普通じゃないなってことには、何かしら事情があるものよ。それを考えないで自分の信じる普通を押しつけると、独りよがりになっちゃうの。それじゃあ、仲良しにはなれないわね」
「事情……」

面倒だと呟いた風璃は、ひどく疲れた顔をしていた。何があったのかは想像もつかないが、そう感じるようになってしまった事情があったのだろう。それを慮る事もせずに酷いことを言ってしまった。

「かえでちゃん、あたしのお願い聞いてくれないかしら?」

唐突に柚子妃が話題を変える。落ち込んでいたかえではすぐに反応ができず、ただ彼女を見つめ返した。

「そのかわり、風ちゃんと仲直りする良い方法を教えてあげるわ」
「あたしにできることですか?」
「もちろんよ。ちょっとしたアルバイトだと思って」
「……やります」

湯気の向こうで、柚子妃が笑った。