第16話

 

幸せすぎて、半分申し訳なく感じながら、ティセリーは美しい大理石模様の扉を後ろ手に閉めた。自然と、感嘆の余韻が吐息となってこぼれる。こんなに贅沢な思いはいつ以来だろうか。

「やあ、堪能したって顔だね」

出てすぐの窓を見下ろすように立っていたシュオユゥが、こちらの姿を認めて笑顔を見せる。

「あ、すみません。お待たせしてしまいましたか」
「いいさ、君の幸せそうな顔で充分お釣りがくる。広いお風呂は初めてかい?」
「はい、気持ちよかったです」
「それは良かった」

ますます表情をほころばせる彼に、そんなに露骨な感情が出ていたのかと、今更恥ずかしくなるティセリーだった。

誘拐騒ぎの一味が捕まった翌日、約束通り、ティセリーは貸してもらった領主邸の客間で朝を迎えていた。朝と言っても、実際はほぼ真昼のような時間で、慌てて飛び起きたところ、控えていた黒服の女性に浴場まで案内されたのである。食事の準備も終わっていると言われ、入浴は手早く済まそうと心に誓ったのだが、そんな決意が簡単に砕けてしまうくらい、レイフォン家の浴室は魅力的だった。
広いバスタブにゆったり浸かるのは、彼ら兄弟の出身地であるティンランの、それも貴族たちが持っていた習慣だそうだ。民主主義万歳、とシュオユゥは付け加えたが、そちらの意味はティセリーにはわからなかった。

「さて、これでストーキングのお詫びになったかな。朝ごはんにしよう、ちょっと遅いけどね」
「すみません……」
「旅の疲れが溜まっていたんだよ。大丈夫、まだ起きてこない女王陛下もいるし、食卓に着く前に準備が必要な奴らもいるから」

首をかしげるティセリーに、くすくすと笑い声だけで返しながら、シュオユゥは壁から身を離した。

窓から差し込む日差しは暖かく、絨毯引きの廊下に窓の形がくっきりと影を落としている。これなら、まだ湿り気の残る髪もすぐに乾いてしまうだろう。
シュオユゥの細いシルエットを追いかけているうち、不意に開けた目の前に瑞々しい緑色が広がった。ガラスで覆われた空間には白木のテーブルの周りに植物の鉢が所狭しと置かれ、天井からは帆布を通した優しい木漏れ日が差し込んでいる。そして、ガラスの向こう側は中庭にあたるらしく、煉瓦造りの噴水と咲き誇る鮮やかな赤い花が、陽光にきらきらと輝いていた。

「わぁ……」
「気に入って頂けたかな?」

控えていた黒服の女性に何事か言って下がらせ、こちらへ椅子を勧めるシュオユゥ。素直に従ったものの、ティセリーの目は美しい庭の風景に奪われたままだった。
その庭の隅で、ジェダイトがヴェイジュと剣の打ち合いをしていた。二人が手にした刃が振るわれるたび、陽の光を反射する。焦げ切れてしまったグローブの代わりに、ジェダイトの両腕には包帯が巻かれているようだった。

「ジェイトに剣を教えたのはヴェイなんだよ」
「そうなんですか」
「2年前にね、リハビリで始めたんだ」
「リハビリ?」

ティセリーが向き直ると、シュオユゥは卓上に置かれた鈴を軽く振った。同じ黒服に身を包んだ女性たちが現れ、テーブルの上に皿を置いていく。トーストしたパンにジャムの壺が数種類、それから冷たい紅茶がグラスに注がれて、ティセリーの前に並ぶ。

「面倒くさい話をするときは、せめて美味しいものでも食べながら、少しでも楽しく話そうかってのが僕のポリシーでね」

ガラスポットから輪切りのレモンを取り出し、自分のグラスに浮かべるシュオユゥ。

「そういう話をするんですか?」
「うん。この後お昼ご飯も控えてるから、メインはそっちなんだけど、その前にね。ジェイトの話だ。君には知っておいて欲しいと思って。……食べながらでいいよ。右端のブルーベリーのジャムおすすめ」
「はい……」

言われるままに、濃い紫色のジャムを一口分パンに塗りつけてかじる。さくっとした軽い歯ざわりとともに、爽やかな甘みが広がった。

「美味しい……」
「でしょう? ブルーベリーは庭で採れるんだ。……で、本題に入る前に、ジェイトの腕の傷を見たね?」

ぎくん、と体が強張る。その拍子にパンのかけらが喉につかえて、慌ててティセリーはグラスに手を伸ばした。そこまでの反応は予想外だったのか、シュオユゥの声にも驚いた気配が混ざる。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。すみません」
「いや、むしろこっちがごめん。まあ、あれなかなか衝撃的だからね。食事中にする話じゃなかったか」

考え込む様子の彼。しかし途中でやめにするつもりはないらしく、こちらが落ち着くのを待ってから、再び口を開く。

「えーと、誤解のないように言っておくと、ジェイトのあの傷は自分でやったものじゃない。両腕ともあんな感じだ。で、本人も負い目に思っている。あんま触れられたくないわけね。そこだけ押さえといてね」
「はい……」

指折り数えるような口調で淡々と告げると、シュオユゥは紅茶を口に運んだ。すかさず、ティセリーもパンを頬張る。会話の合間を縫って食べれば、むせこむ心配もないだろう。柔らかな金色のりんごジャムも、しゃくしゃくとした食感が残っていて美味しかった。

放電直後でふらつく自分に、ジェダイトが伸ばしたのは右腕だった。今も、ガラスの向こうで剣を握るのは右手。冷静に考えれば、自分で利き腕に傷をつけるのは難しい。
自分でやったのでなければ、つまり誰かに傷つけられたというわけで、そんな体験が辛くないはずがない。負い目に思っているのであれば見られただけでも嫌だろうし、加えて自分の態度はどうだったろう。

「……わたし、なんて酷いこと」
「君だって動転していたんでしょう? 初見でそこまで思い至るなんて僕か神様くらいだから、気にする必要はないよ。お茶のおかわり、いるかい?」

冗談なのか本気なのかわからない慰めとともに、強制的にグラスが満たされる。美味しいものの効果は確かに絶大で、のろのろと口に含んだそれが舌に優しい甘さなのが情けない。
頬杖をついたシュオュウが、懐かしむような目で自分のグラスに刺さったストローをかき回す。

「ジェイトは2年前、しばらく行方不明だったことがある。ネリドの市営軍がひと月探しても見つからなくて、諦められていた。そんな時にウィラが気絶した彼を担いで帰ってきてね、砂漠の真ん中で見つけたんだけど、とか言って。あそこの仲良しはそれからだ」

相槌を求められてはいないようなので、黙って聞き入るティセリー。

「それから、目を覚ました彼の体に残っていたのがあの傷で、代わりになくなっていたものが痛覚だ。痛覚、わかる? ジェイトはそれ以来、痛いって感覚を失くしてしまったんだ」

噛み砕いた説明のおかげで、理解するのは簡単だった。しかし、その状態がどんなものなのかは、ティセリーの想像の域を超えている。
痛みは、体に異常があることの証拠である。例えば、足を痛めたことに気づけず、歩き続けてしまえば、いつか立つことすらできなくなってしまうだろう。ましてや、命に関わる怪我の痛みにすら、彼は気付くことができないのだ。

「……ジェダイトさんは、怖くないんでしょうか」
「どうなんだろうね。むしろ怖いのは見ているこっちなんだけどね。無鉄砲だからなぁ、ジェイト」

シュオユゥがグラスを煽り、残った氷がからんと音を立てる。とっくに食べきってしまったトーストの皿を見下ろして、ティセリーは自分の内側に問いかけた。
わたしに何か、できることがあるだろうか。