第17話

 

「シュオ、ユー、さん」
「…………」
「あの、シュオユ、ウ、さん……?」
「何やってんだよ、シュオ」

剣の練習を切り上げ、風呂場で汗を流してきたジェイトがテラスへ入ると、ティセリーが顔を真っ赤にしてなんとかシュオに話しかけようとしている最中だった。呼ばれている本人はいたって涼しげに、呆れ声のジェイトに微笑み返す。

「やあ、ジェイト。特訓お疲れ様。勝てたかい?」
「勝てねぇよ。それより、ティセリー呼んでるじゃん、聞いてやれよ」
「だって、僕はシュオユーでもシュオユウでもないもん。シュオでいいって言ったし、それが嫌ならちゃんとした発音をしてほしいね。頼みごとがあるなら特に」

正論である。しかし、自分の名前がディロウ文化圏の人間にとってどれだけ発音しづらいか、知った上でそう主張するから悪質だ。
とうとう我を折ったティセリーが、しぼんだ声で「シュオさん」と呼びかけた。

「なんだい?」
「あの、わたし」
「あ、ちょっと待って、君さ」

だが、せっかく成立した会話も、この魔王は簡単に混ぜ返してしまう。

「君、ジェイトのことは何て呼んでたっけ?」
「え、ジェダイトさん、と……」

突然話題にされたジェイトにも、何の話だかまるでわからない。目を丸くするこちらに、シュオはにんまりと意地の悪い笑顔をよこした。

「ジェイトでいいって言われてたんじゃない? 僕のことは愛称で呼ぶのに、ジェイトはよそよそしくジェダイトさん呼びかぁ。可哀想だなぁ、ジェイト」

わざとらしくため息をついて見せる彼。座ったティセリーの戸惑いがちな上目遣いと視線が合う。

「……ジェイト、さん」
「さん、は無しで」
「……ジェイト?」
「ん?」
「あ、いえ、あの」
「ところで頼みごとって何だっけ?」
「きゃあ!」

突然話を戻すシュオに、真っ赤になったティセリーが悲鳴を上げる。ジェイトも心臓が止まるかと思った。悪びれた様子もない彼を睨みつけてみるが、頰が紅潮しているのは自分でもわかる。

「いやいや、邪魔しちゃ悪いかなとも思ったんだけどね。見せつけられてるこっちの気分もわかってほしくてね。ほら、ジェイト、座りなよ、邪魔だから」

ちょうど立っている位置が、シュオに注ぐ陽の光を遮っているらしい。憮然としてジェイトはその場をどき、ティセリーが座る隣の椅子を引いた。

「そういやシュオ、ウィラ追い出しただろ」

朝から、いや、昨日の騒動の後から、彼の姿は見ていない。食事の席にも現れないとなれば、その答えは一つしか考えられない。

「人聞きの悪い。ちゃんとした用事だってば。逃げようとするから、縛り上げて北西行きの船に放り込んだけど、まあ、客室取れるくらいのお金は持ってるでしょ」
「……尻尾が出てるぞ」
「狐のかい? それとも棘の生えたやつ?」

鉄壁の微笑みを浮かべるシュオ。それ以上言及するのを諦めたジェイトの前に、白い付箋のような紙が差し出される。顔を上げると、同じものを渡されたティセリーも当惑していた。

「それちょっと舐めてて。10秒くらいでいい」

何なんだよ、と思いつつも従い、しばらく咥えていたそれをシュオの差し出すグラスに落とす。ティセリーの付箋も回収して、彼は二つのグラスに水を注ぐと、懐から取り出した小瓶の液体を1滴ずつ垂らした。

「はい、じゃあこれはちょっと待ち。で、ティセリーちゃんの頼みって何だっけ?」
「おい、説明しろよ」
「後でわかるさ」

何か考えがあるらしい。はあ、とため息をついて、ジェイトはテーブルに頬杖をついた。

「あの、彩式って、わたしにもできるんでしょうか?」

真剣な面持ちで問いかけるティセリー。シュオは、彼にしては優しげな目をして、彼女にゆっくりと頷いて見せた。

「もちろん。向き不向きはあるけど、基本的には努力でどうにかなる技術だからね。君は、向いてるってウィラにも言われたでしょう?」
「はい、あの、聖母の……」

聖母の申し子。今はまだ、幸せそうな名前とは裏腹に、厄介な体質だという印象しかないが。

「ジェイトも聞きたがってたらしいし、まずはそこから話そうか。ちなみに、彩式と彩素に関しての知識はどのくらいある? ジェイト、標準学校でなんて習った?」
「……えー」

唐突に始まったおさらいに、ジェイトは記憶の底から教科書の内容を引っ張り出す。彩式に関しては、そういう技術がある、程度にしか触れられていなかったが、彩素についてはもう少しあったはずだ。

「……っと、何だっけ。まず、空気中に含まれていて? で、栄養じゃないけど必要みたいな。体が酸素を必要とするように、心は彩素を必要とします、的な」
「お、あってるじゃん。ちゃんと勉強してたんだねぇ、偉い偉い。彩素の種類は言える?」
「……白、黒、赤青黄、だろ? あと、紫、緑」
「それから藍ね、僕の十八番。ありがとう、解説の手間が省けたよ」

何とか満足させられたらしく、シュオは微笑みを見せる。学生時代以来の嫌な汗をかいたジェイトがふと目をやると、ティセリーが真剣な顔で頷いていた。どうやら、彼女に聞かせるために喋らされたようだ。

「じゃ、ここから専門知識だ。ジェイトが覚えていたように、彩素は精神を保つために必要なものだね。だけど、その必要となる彩素は個人個人で違うんだ。僕とヴェイがほとんど同じだから、たぶん遺伝と関係があるんだろうけど……、まあ、実際に見てみたほうが早いかな」
「見る、って」

すると、ここで彼は先ほどの付箋を入れたグラスを指し示す。ジェイトが立ち上がると、慌てたようにティセリーも続き、二人で丸く切り取られた水面を覗き込む。

「わあ……」

声を漏らすティセリー。片方のグラスの水面は、ちょうどケーキを切り分けたように、八色の光が淡く輝いていた。

「検体が唾液だから、あまり正確じゃないんだけどね。そっちのがジェイトだ。一番多いのが光の白で、次が水の青。あとはほとんど同じくらいの量で六色続いていくね。この比率は彩素に関する親和性とほぼイコールで、もしジェイトが彩式をやるなら、白彩式と青彩式が向いてるってわかる。で、こっちがティセリーちゃん」

シュオが注意を促したそちらのグラスは、初めのものとは大きく異なった様を呈していた。円の半分が紫で、もう半分が青。他の色はほとんど見受けられない。

「これがわたしの……?」
「そう、君の血中彩素の割合。50%雷、48%水、残り2%がその他ってところか。色の差はあれ、いわゆる聖母の申し子という体質は、この非常に偏った親和性の比率が原因だとされているね」

グラスの縁をなぞりつつ、解説するシュオ。

「だいたい、円の6分の1くらいの彩素が血の中にあれば、その属性に対して親和性がある。自分の意思を、周りの彩素に伝えることができるんだ。比率が大きければ大きいほどスムーズに伝わるから、逆にいうと、本人が意図せずとも伝わってしまう場合もある。驚くとか怖がるとか、突発的な感情は特にそうだね」
「だから、驚くと放電なんだな。気絶するのは?」
「血の中の彩素が使われて無くなるから」

シンプルな答えである。
同時に、ジェイトの頭をよぎるのは、牢獄の中で伏せっていたクォーツの真っ青な顔。血液からしか栄養が取れない、と言っていた彼は、あの時ただの貧血ではなく、彩素が欠乏していたのかもしれない。

「あの、でも、前はそんなことなかったんです。前っていうか、旅に出てからは。だから、治ったんだと思ってたのに」
「ふぅん? もしかして、旅に出るときに何かもらわなかったかい? 透明な石でできた、お守りとか」
「え、どうしてわかるんですか?」

ティセリーが目を見張った。聞けば、叔母にもらった透明な石のお守りを、財布に結んであったのだという。財布は、熱中症で倒れたときに失くしたのだったか。どうやらそれが、彩式の暴発を防いでいたらしい。

「それなりに希少なものなんだけどね、それ」
「すみません……」
「まあ、考えておくよ。で、具体的な彩式の使い方だけど、まずウィラみたいな彩式陣を描く方法はキミには無理だ。っていうかあいつ以外には無理だ。僕にだってできない」
「ああ、あいつ、あれ特技なんだってな」

正確な長さの直線や円がフリーハンドで描けること。ウィラの使う彩式陣は、彼のその技術があって初めてちゃんとした効果を発揮する。彩式陣自体は、例えば目の前のシュオも使うのだが、それは事前に道具を使って正確な図形を書き溜めておくという方法での利用だった。

「そうなると、あとは呪文を唱えるのが一般的かな。あとでいくつか教えるから、一緒に練習してみようか」
「はい、お願いします」

真剣な瞳で、ティセリーはぴょこんとお辞儀をする。にっこりとそれを受け止めたシュオは、立ったままの二人に対して座るよう促した。振り返れば、豪勢な昼食を乗せたワゴンがジェイトの脇を通り抜けられず、メイドたちが困惑していた。