第6話

 

明日必要な量の水を井戸から汲み上げて樽を満たしておくのは、ジェイトの一日で最後の仕事である。その作業を終えて、厨房を照らすカンテラの灯を消そうとしていたところに、こんこんとノックの音が響いた。

「ジェイト、まだいる?」
「……いるけど」
「良かった、もう部屋に戻っちゃったかと思った」

照れ笑いを浮かべて、ユナがドアから半身をのぞかせる。彼女はウィラやティセリーがそれぞれ宿に引き上げた際、一緒に自宅へと戻ったはずだが、時間をおいてまた来たらしい。そろそろ深夜を回ろうかという時間帯で、市営軍が見回りをしているとはいえ、あまり褒められた行為ではない。

「忘れ物でもしたのか?」
「ううん、そうじゃないの。あのね、あの……」

束ねた髪を揺らしながら傍へ寄って来て、ためらいがちになかなか切り出さないユナ。

「……あの、紅茶」
「紅茶?」
「うん、……淹れ方教えて?」
「今から?」
「ダメかな……?」

上目遣いに訪ねてくる彼女に、ジェイトは軽く息をついて手招きをする。ぱっと表情を明るくさせると、弾むような足取りで、ユナは戸棚へ向かった。
その様子を横目に、金属製のケトルに水を汲み、準備を始めるジェイト。

「……送ってくから」
「あ、うん、ありがとう。……ごめんね、明日も早いのに」

二人分のカップとポットを出して来たユナが、隣に立って呟いた。
明日も早いのに、ではなく、明日が早いからこそ、彼女は戻って来たのだろう。今回のノクトレス行きはもともと1週間ほどの予定だと伝えていたが、その間会えないのだから、いざとなって彼女が落ち着かないのも無理はない。
と、なんとなく察してしまえる自分が嫌になるジェイトだった。

互いに無言のまま、しゅうしゅうとケトルの立てる音だけが厨房に響く。湧いた熱湯の半分でポットを温め、減ってしまった分の水を追加すべく、ジェイトは樽の蓋を持ち上げる。

「あ、あのさ」

その背中に、ユナから声がかけられる。

「あ、あの子、ティセリーちゃんのことなんだけど」
「……ああ、あいつが?」

緊張で裏返っているのが丸わかりな彼女の声に、ジェイトは平静を装って返事をする。

「え、えっと、ジェイト的にはああいう女の子って、その、……どう?」

しかし、随分と直球な質問に、結局あからさまに硬直してしまったのだった。

「あ、ごめんね、あの、大した意味はなくって。ほ、ほら、ジェイトってあんまりそういう話しないし、幼馴染として気になっちゃうなーって思って」
「……それだけ、だよな」
「う、うん、それだけ。えへへ……」

乾いた笑い声が少し続いたのち、再び沈黙する二人。胸の内の動揺を押し殺しつつ、ジェイトはすぐに沸く程度の量だけ、ケトルに水を注ぎ足した。心臓に悪いことこの上ない。
柄杓を元の位置に吊り下げる。壁に当たって、かつんと音が響いた。

「……ジェイト」

小さく名前を呼ばれ、ジェイトは振り返る。

「悪い、ユナ。沸騰するまでもう少し」

言葉は最後まで続かなかった。不意に口を何かで塞がれたために。
柔らかく、甘い匂いのする、ユナの唇だった。

「……っ」

しばらくそのまま時間が止まり、やがてゆっくりとその柔らかな感触が離れて、とん、とユナが踵を下ろす。
酔ったような水色の瞳と、何も言えないままのジェイトの視線が合った。
途端に、見る見るうちに彼女の頬が真っ赤に染まる。

「や、やだ、あたし、何して……っ! ごめん、帰る! 紅茶、ごめんね!」

それだけ口走ると、彼女は身を翻して、まさに脱兎と比喩するにふさわしい勢いでその場から走り去っていった。ドアベルがけたたましく打ち付けられるのが厨房まで響く。
ジェイトの思考回路はその音でも正常さを取り戻すことなく、呆然としたままだった。しかし、なんとか火事を出す前に我に帰ることができたのは、幸運だったかもしれない。