第7話

 

ひとりの人生よりも、ずっと長く続いた戦争があった。
発端は、東のシアニー大陸北部に位置する帝政国家ティンランが、小国の点々と存在するイェルア大陸を手に入れようとしたことだと言われている。帝国の暴挙に異を唱えたのが、元よりイェルア大陸に植民地を置いていた西方、ミゼラ大陸を占めるディロウ王国であり、この二国の対立が激化する中、イェルア諸国は自衛のために一つの連合国として団結した。こうしてこの戦争は、ティンラン、ディロウ、連合国の三つ巴の争いになったのである。

そしてその終わりは唐突に、皇族をはじめとしたティンラン上層部が軒並み暗殺されたことで、ほとんど決着がついたのだった。この事件の真相は不明だが、定説ではディロウが密かに開発した特殊兵器によるものらしい。

これ以上戦いを続ける意味はないと判断した残りの二国は、七年前に和平条約を結び、自治区を除く全世界を共同で治めることを決めた。やがて、かつての連合国盟主を総帥に据えた、世界に唯一の中枢政府が発足した。

その初代総帥が最初に手がけたのが、ネリドの中央広場にそびえる石碑の建立だった。ネリドが平和の街とあだ名される由縁でもある、巨大な平和記念碑。メインストリートよりも幅のあるこの真っ黒な石には、その表面に途方もない量の文字列が刻まれている。全て、戦争で亡くなった人々の名前だった。
このどこかにある父の名を、ジェイトが見つけたことはまだない。

薄青い朝方の空気の中、石碑をなんとなく見上げていたジェイトに、背後からウィラの声がかけられる。

「おはよ、ジェイト。何か浸ってた?」
「浸ってねぇよ。……おはよう、ウィラ。……ティセリーも」
「おはようございます……」

朝に強いというウィラとは対照的に、ティセリーの瞼は重そうだった。さすがに明け方は涼しいからか、彼女はワンピースの上にクリーム色の長袖を重ね着している。ブーツとお揃いの房飾りがどこか異文化を感じさせる装いだった。手にした短めのステッキも珍しい。

ウィラもすっかり旅支度で、あの巨大な杖に荷物の袋を引っ掛けて担いでいた。

「どうする? 日の出まではまだ時間あるけど、もう出発するか?」
「そうだねぇ、早いに越したことないし、いいんじゃない。明るいうちに峠を抜けられれば、ジェイトも仕事が少なくて済むもんね」

ともすれば傾きがちになるティセリーに苦笑しつつ、彼はジェイトの腰にあるものを示す。それは慣れ親しんだ重みの、一振りの刃。剣の師であるヴェイが、ジェイトのためにと用意してくれたものだった。普段は無茶にばかり使ってしまっているそれを、誰かを守るために使えという言いつけに従って振るうのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「ジェダイトさん?」

ざり、とレンガを踏みしめる足音。呼びかけに振り返ると、広場の入り口に線の細い少年が立っていた。
見覚えのあるようなこげ茶の髪に、とろんとした水色の瞳。簡素な麻の服。しばらく彼を凝視して、恐る恐るジェイトは問い返す。

「……、ヨシュア?」
「誰だと思ったんだよ。……って、しゃーねーか、こんなカッコじゃあな」

リスティア三兄弟の末っ子、ヨシュアだった。普段は髪も服も攻撃的で、化粧までしている彼だが、今はその面影さえも伺えない。

「うわ、すっぴんのヨシュア、俺初めて見た。全然別人じゃん。こうして見ると、ディールよりユナちゃんに似てんだねぇ」
「うるせぇ死ねクソ彩式士。だから嫌だったんだ、こんな朝っぱらからねーさんの伝言なんて」
「……ユナから?」

笑うウィラを睨みつけるヨシュア。ジェイトが確認すると、彼は目元の険を和らげ、ゆっくりと頷いた。
このタイミングでユナから伝言なんて、昨夜のあれしか心当たりがない。見上げてくるヨシュアの眠たげな瞳が気まずく、思わずジェイトは視線をそらす。

「……それで、なんだって?」
「それがさぁ……」

と、そこで彼は一旦言葉を切り、ウィラの陰からこちらを窺っていたティセリーに目を留めた。

「……女連れかよ」
「え」
「いや、こっちの話。で、なんか知らねーけど、謝るつもりはないってさ。喧嘩でもしたわけ?」
「そ、そういうわけじゃねぇけど……」

間違いなくあれについてだろうが、てっきり弁明されるか、忘れて欲しいと言われるのではと予想していたジェイトは、ひたすら面食らうばかりである。ヨシュアの冷めた視線が痛い。

「……とにかく、わざわざありがとな、ヨシュア」
「別にジェダイトさんに言われなくても、お礼はねーさんから貰ってるよ。あと、これはオレからだけど、ねーさん泣くとうるさいから、そこらのクラゲ相手に怪我すんなよ」
「あ、ああ、うん」

そんじゃ、と上げた右手をポケットに突っ込み、気だるげな歩調で彼は広場を出て行った。
その後ろ姿を見送り、長々とジェイトはため息をつく。ノクトレスから帰ってきた時、どういう態度でユナに接すればいいのか、考えると気が重かった。

「何かあったの、昨日」
「大したことじゃねぇよ。ほら、そろそろ行くんだろ」

食いついてきたウィラを追い払い、ヨシュアが去ったのとは反対の出口に足を向けるジェイトだったが、その目の前に険しい顔のティセリーが立ちはだかった。

「なんだよ、行くぞ」
「……喧嘩したんですか?」
「してねぇってば」

脇をすれ違おうとすると、腕にしがみついてまで進行を阻もうとする彼女。これにはジェイトも怯む。

「おい……」
「わたしに言えたことじゃないかもしれないけど、出かける前にちゃんと仲直りして行ってください」
「そんなんじゃねぇっつってんだろ。いいから放してくれよ」
「もしもこれっきり会えなくなったらどうするんですか」

ジェイトは辟易する一方だが、ティセリーの瞳は真剣だった。誰かを探している彼女の前で、この態度は確かに問題だったかもしれない。

「はいはい、そこまで。そろそろ本気で出発しないと、良い宿が取れなくなっちゃうよ」

睨み合いに近い二人の視線を、ウィラの言葉が遮った。気づけば、朝一番の陽光に黒い石碑の上部が照らされ始めている。ティセリーが無念そうな表情で、ジェイトのグローブから手を放した。

「後悔しても知りませんから。……あ、あと」

再び、こちらをきっ、と睨みつけてくる。

「名前、どうしてちゃんと教えてくれなかったんですか」
「名前? ……ああ」

昨晩、こちらの紹介はユナがまとめて行ってくれたのだが、彼女はジェイトのことをそのまま愛称で伝えていた。ティセリーはなぜかそこに憤りを覚えたらしい。

「ジェイトでいいよ、そっちのが気楽だし。ヨシュアがわざわざ本名で呼ぶのは、単なる嫌がらせだからさ」
「名前負けしてるもんねぇ」
「うるせぇな……」

ウィラは笑うが、ティセリーは硬い表情を崩さない。

「……ジェダイトさんって呼びます」

静かにそう宣言すると、それきりこちらを見もせずに、ウィラの斜め後ろに戻っていった。そこを定位置に決めたようである。
ほんのわずかの間に、彼女からの評価が暴落してしまった。頑なな態度に嘆息するジェイト。ノクトレスに着くまでずっとこんな感じになるのかと思うと、爽やかな夜明けに似合わず、気分は憂鬱なのだった。