第1話

 

例えば。
目の前に置かれた小ぶりのナイフ。
これを首や胸につきたてたら、人間は簡単に死んでしまうものなのだ。

善人だとか悪人だとか、金持ちとか貧乏とかに関係なくそれは誰にとっても事実で、だから、殺したって死ななそうなあの人が交通事故なんかであっさりとこの世を去ってしまったことも、単なる事実にすぎないのだろう。

だけど、ほら。
良い意味でも悪い意味でも貪欲だったあんたは、まだまだやりたいことが沢山あったんじゃないか?
オレにはもう、やりたくないことしかないよ。
地区予選で負けたから部活も終わりだし、これから先は勉強一色の受験生だ。
高校なんてどこだって一緒だろうに、母はどうにかして自分を、少しでも偏差値の高いところへ入れたいらしい。

どうして、やりたくないことしかない人間が生きていて、やりたいことがいっぱいあった人間が死んでしまったのか。
やりたくないことしかないのなら、無理に生きている必要は無いんじゃないか?

例えば。
目の前に置かれた小ぶりのナイフ。
これを首や胸につきたてたら。

……さくり。

と、真っ赤なリンゴに鈍く光る金属が刺さる。

「……秀実、食べる?」
「……え、……ああ、うん……」

母がくるくるとむいていくリンゴの皮に視線を落とし、吉口秀実はぼんやりした思考を断ち切った。

アホくさ。
いくら誰かが痛い思いをして死んだって、オレが同じ目に遭わなきゃいけない理由がどこにある。
薄情者だ。だから、泣かない。
一度目を閉じて、開けて、まっすぐ前を向くと、例によってヤクザ顔負けの強面で笑った遺影と視線が合った。

五月中旬。
父の葬式だった。