第12話

 

路地を曲がると、広がるのは闇ばかりだった。
先ほどまで追ってきた、白く光る獣の姿は無い。

「……あー、見失っちゃったかー……」

ポニーテイルをなびかせた雪彦が、仮面に覆われていない部分で微苦笑する。結構な距離を走ったにもかかわらず、おっとりした容姿の彼は息すら荒げていなかった。

一方、先行していた和馬はいかにも不満げで、ちっ、と舌を鳴らして長銃シリウスを担ぎ直す。どうせ弾なんか入っていないのだから、置いていけば良かったのに。

「……そんなカリカリしなくてもいいよ。弱い夢魔だったしね。……二人は大丈夫? 寒くない? 今日はここらで切り上げて、事務所に戻ろうか?」

くるりと振り返り、優しく笑いかけてくる雪彦。素手でノートパソコンを抱えていた秀実には、たいそうありがたい申し出だった。滑って落とすと大変だから、と机の上に放置してきた手袋がどれだけ恋しかったことか。
しかし、もこもこの黒いファーで全身統一したつかさは、お構いなしに秀実の期待を打ち砕く。ラインストーンまみれの携帯を取り出し、レーダー画面に視線を落とすと、

「待って、雪彦さん、反応が……」
「映る? ちょっと待ってね……」

戻ってきた雪彦まで、秀実から受け取ったパソコンを開いてなんだか作業を始めてしまう。仕方がないので待つ間、感覚の失せた手に息をかけるが全く効果は無い。これはしもやけ確定か。

「……あ、ホントだ。その辺に隠れたのかな……? カズ君、どうする? やってく?」
「当たり前だろ」
「わかった。……ごめん、しばらく待っててね。何かあったら僕に電話して」

ずんずん先に進んでしまう和馬に続き、パソコンを片手にした雪彦も路地の暗闇へ消えた。
つかさはそのまま黙って液晶を眺め続けるが、荷物係すら免除されてしまった秀実は本当にやることが無い。寒さと退屈をしのぐため、マフラーの巻き方をあれこれ工夫してみるが、たいした気晴らしにはならなかった。

バイトを始めてから半年を超えたが、こうして結局、雑用のスキルすらろくに増えていない状態が続いている。
しかし、それももう数ヶ月の話だ。
卒業さえしてしまえば実戦だって、中学生だから駄目、とは少なくとも言われないだろう。本格的に就職して、何か武器を貰って、成人するころには和馬や雪彦のように前線でバリバリ活躍できるようになる、はず。
そしていずれは筑波みたいなエリートとして、仲間から憧れの目を向けられる日がくるかもしれない。
都合のいい将来設計にひとりで頬を緩める秀実だったが、次の瞬間には立て続けのくしゃみに襲われ、実に恰好がつかなかった。

「……大丈夫、坊や? 手袋貸しましょうか?」
「……いい」

見るからに女物のそれにすがりたくなるほど、こらえきれない寒さではない。秀実にだって、たとえ今コートとマフラーの装備で震えていても、去年の冬はジャージに短パンで校庭を駆け回っていたという誇りがある。

「ほら、使って。アタシ、ポケットの中でも充分あったかいから平気よ。しもやけになったら、鉛筆持つの大変でしょ、ね?」

と、しかし、ふわふわした手袋を強引に渡されてしまうと、わざわざ拒むほどの余裕は無いのだった。

「……あ、りがとう」

大人しく受け取る秀実を覗きこみ、珍しく優しい微笑みを浮かべるつかさ。姉がいたらこんな感じだろうか、と無意識に思う。

ひゅっ、と風を切る音がした。
次の瞬間には、彼女の姿は消えていた。

「…………は」

秀実は呆然と、その空間を見つめる。
穏やかな笑顔があった場所には、こつ然と現れた一頭の白い豹、か、チーターか。理知的な金色の目が、静かにこちらを窺っている。

たくましい足の下に、黒いファーが敷かれていた。
ファーは、人の形をしていた。

「……つかさ……?」

背後から忍び寄っていた夢魔が襲いかかったのだと、そして自分のすぐ横にいた人間を押しつぶしたのだと、気付くまでにずいぶんと時間を要した。
気付いた途端に、体中が粟立った。

「…………!」

目まぐるしいスピードで思考が回る。
とにかく逃げないと
チーターの足に敵う訳が
それよりつかさが
どうすればいい? どうしたら

『……何かあったら僕に電話して』

「ユキさんに……っ」

動転したまま、ポケットから携帯を引っ張り出す。
その所作が獣を刺激した。
鼻先に開く真っ赤な口と、鋭い牙。熱い呼気が頬に触れ、地面から引きはがされた秀実の体は、重力を無視した方向へあっけなく投げ出された。目に映る色が次々と切り替わり、三半規管の悲鳴すらあっという間に掻き消える。走馬灯なんて情緒もなかった。

気持ちの悪い浮遊感は肉体から魂が飛び出したからだと思っていたので、背中にぶつかるコンクリートの固さを感じた時には、高層建築が並ぶ天国の図が頭をよぎったほどだ。
あれー、父さん二階? オレ最上階だぜー?

……じゃなくて。

「……っ、てぇ……」

リアルな痛みに身をよじる秀実。幸いなことに骨折などはないようだが、しばらくは転がっているしかなさそうだ。
その胸倉を、誰かが乱暴につかみ上げる。

「携帯。私に寄こしなさい」

高圧的だが、まだ若い女性の声だった。

「……、携帯……?」
「早く。突き落とされたいの?」
「…………」

抵抗を許さない厳しい口調に、秀実は、奇跡的に握ったままだったそれを相手へ渡す。すぐさまプラスチックの筺体は奪い取られ、こちらを離さないまま、彼女は夢中で操作し始めた。プライバシー……、とか、突っ込んでいる状況じゃないとは分かっているが。

痛みのために涙でぼけていた焦点がようやくはっきりしてくると、あたりを確認するだけの余裕も生まれてくる。目を走らせたそこは、どこにでもありそうなビルの屋上のようだった。恐らく、あの夢魔は秀実をくわえるか何かして、下の路地からここまで飛び上がったのだろう。
そして、彼女が獣の正体か。

見た目的には、秀実よりもやや年上、といった位の少女。チーターのときと同じ真っ白な長い髪に、金色の大きな瞳。冬だというのに、着ているものはキャミソールとホットパンツだけで、こちらが凍えてしまいそうだった。

「……、レーダーは?」

と、一心不乱に秀実の携帯をいじっていた彼女が、幾分強張った声を出す。

「教えなさい。レーダーはどこ?」
「……レーダー?」
「あんたたち、それで私みたいな夢魔を見つけるんでしょ? その画面よ。早く」
「……、あの……」

雪彦やつかさがよくチェックしているあれのことだろうが、当然ながら下っ端の秀実が使える訳もない。圧迫された喉でなんとかその旨を伝えると、大きな目をさらに見開く少女。

「……そんな、やっと捕まえたのに……」

捕まえたって、オレをか?

携帯も秀実の胸ぐらも手放し、彼女はぺたん、とその場に座り込んでしまう。抜け殻のようになった姿はあまりに弱々しく、頼りない。先ほどまでの態度はどうやら、虚勢で保っていたものらしい。

投げやりに解放された据わりの悪い姿勢のまま、沈んだ彼女のつむじを見つめる秀実。うつむいた表情は、ふわふわの髪に隠れて窺うこともできない。
これはチャンスだ、逃げるなら今だ、と、賢い方の自分が発破をかける。だが、現実の秀実は動くことができなかった。

「……、……なぁ」

少女の肩が震える。

「……とりあえず、あの、……寒くない?」
「……え?」

その言葉が予想外だったのか、ぽかんとした顔を上げる少女。頬や鼻の頭がほんのり赤いのは、泣き出す寸前だったのだろう。秀実の鼓動がなぜかボリュームを大きくする。

唇を尖らせ、ぷい、と彼女はそっぽを向く。元の肌が白いせいか、紅潮が増したのもわかりやすい。

「……別に。あなたたちとは違うから」
「へ、あ、そうなの? ……いや、でも見てて寒いし。あ、良かったらこれ! 着てて!」

引きちぎる勢いでボタンを外し、脱いだコートを彼女に押し付けた。しかし、うるさいほどの心拍音は治まらず、外気の染みた皮膚は一気に冷えたが体の芯は沸騰しているかのよう。

「……ありがとう」

小さなお礼の声。ほっと安堵の息をもらして目線を戻した秀実は、次の瞬間激しく後悔した。コートの裾から生足が出ているとその下は何も着ていないように見え以下自粛。

こちらの考えが伝わったのか、膝を抱えて座り直した彼女は、そのまますっぽりと足首まで隠してしまう。

「……あんた、変な人ね。馬鹿なの?」
「……は?」
「夢魔に上着貸す人間なんて聞いたことないもの。あんたたちは、私たちを狩ることしか頭にないんだと思ってた」
「え、いや、確かに和馬とかそんな感じだけど、オレは全然……、ていうか、ただのバイトだし、オレ」

こんがらがった言い訳に、彼女の冷静な目が痛い。
どうにかこの動悸を落ち着けられないかと、秀実は必死で頭を働かせ、からからに乾いた口で続けた。

「あ、オレ、吉口秀実! 秀実でもヨッシーでも好きなように呼んでくれていいから! き、君は」

君、なんて初めて使ったかもしれない。

「……あぁ、私、名前無いの」
「は? え、なんで?」
「呼ぶ人がいないから。まだ生まれたばかりだし、アハトはしゃべれないし。こっちこそ、呼びたければ好きに呼んで」
「……、……えーっと。じゃあ、……イリスで」
「イリス?」

訝しげに眉をひそめる少女。透き通ったその瞳がうるさい鼓動の原因だと、ようやく秀実は気付く。

真っ白な彼女から、まずぱっと思いついた名前は安直ながら『白雪』。しかしこれでは雪彦と微妙にかぶってしまうので、やや趣向を変えて『白銀』と表現してみると、脳裏に浮かぶのは和馬の銀髪である。そこでいっそ発想を換え、鮮やかな虹から導きだしてみた案だった。

「うん。日光とか、白い光ってホントは虹の7色でできてんだぜ?」
「へぇ……。虹って意味なの?」
「なんかの神話で虹の女神がイリスって」

言いかけ、慌てて口を閉じる秀実。ちなみに知識元は漫画なのだが、そんな理由からではない。
なんだか、とんでもなく恥ずかしい事を口走ってしまったような。ふぅん、と納得顔の彼女は気にしていないらしいが、女神に例えるなんてまるで、周りが見えていない告白の文句みたいで。

ちょっと待て告白って何。

そう長くもない連想ゲームの果てに、ゴール地点の単語が一瞬で秀実の思考回路を埋め尽くした。あれ、間違えた? と、いくら繰り返してみても、たどり着く結論は毎回同じ。
おめでとう、とばかりにファンファーレが鳴り響き、羽根の生えた幼児がハートの紙吹雪をまき散らす。そんな幻覚が浮かんで、消えた。

吉口秀実。十五歳にして、たぶん初恋の日。