第13話

 

突然けたたましい電子音が鳴り、秀実は変な叫びを上げてその場から飛び退いた。イリスが代わりに拾い上げた携帯には、和馬の名と電話番号が表示されている。どきどきと跳ね上がる心臓を抑え、受け取ったそれを耳に、

「てめぇどこ行きやがったクソガキャあぁッ!」
「だ……っ!」

押し当てる前で本当に良かった。大音声を通してびりびり痺れる筐体を、慌てて遠ざける秀実。

「怪我人放り出して自分だけ逃げやがったのか! だからガキは嫌だっつうんだ! おい、てめぇのこのこ戻ってきたら腕へし折ってやるから覚悟して」

通話を切る。だが、続く怒声がビルの下から生中継で聞こえていた。
どっと押し寄せた疲労感にため息をつきつつ、しかし、同時に一つ安心もする。

「良かった。つかさ、怪我しただけかぁ……」
「骨は折れたかもしれないけど、死んではいないはずよ。夢魔は、そう簡単に人を殺したりしないの」

あんたたちと違って、と付け足すイリス。ついさっき惚れた相手とはいえ、ひとくくりに非難されて秀実も黙ってはいない。

「……オレたちだってそうだよ。殺してる訳じゃないって聞いたもん。確かにやり方乱暴だけどさ、それはそっちが抵抗するからだろ」
「当たり前でしょ、嫌だもの。ヒデミ、あんたは、細胞が死にさえしなければ、自分がバラバラにされてもいいって訳ね?」

向けられた厳しい視線。秀実はたじろぎ、何も返す事ができなかった。

夢魔という名は本来、その姿を構成している金色の粒を指す。よって正確を期すならば、イリスのような存在は夢魔の集合体と呼ぶべきだ。
一粒一粒の夢魔は、単体では意思すら持たない。しかし、どんな人間のどんな望みから発生したかによって性質は様々であり、それらがちょうどバランスの良い配合で集まったところに、初めて自我が生まれるのだという。
夢魔は死なない。バラバラになるだけ。
死ぬのは自我だ。

「……けど、それならもう一度集まることだって」
「できなくはないわね。ただ、別の夢魔が絶対に混ざらないとは言えないし、混ざったかどうか判断する術も無い。バラバラにされたあんたが、これは本当に自分の右腕かって考えるその頭すら、もともと自分のものだったか怪しいのよ」
「…………」

雪彦は、知っていたのだろうか。

「……、ごめん、オレ……」

うつむく秀実に、イリスが小さな息を吐く。
「……いい。でも、知らなかったのなら覚えておいて。……私は、絶対に捕まりたくない。捕まってしまえば、バラバラにされておしまいだもの。あんたの名付けたイリスでも、アハトが愛してくれた私でもなくなるんだわ」

ずきん、と空気を読まずに胸が痛んだ。
膝で作った山に口元を埋め、静かに目を閉じる彼女。その目蓋の裏に、アハトとかいう相手が浮かんでいるのか。

「イリスは……、そのアハトって奴を探してるの? それでレーダーがどうとか……」
「ええ……、そう」
「どういう奴? オレの知り合い結構強いから、もしかしたらもう退治しちゃったかも」

酷いことを言った、と思う。案の定、イリスは眉根を寄せ、秀実を視界から外した。

「アハトが簡単に捕まるはずない。強いもの……、知ってるでしょ? 錆色の死神のことよ」

その名を聞いた瞬間、胃に氷の塊が滑り込むような感覚を味わう。そいつとの邂逅で覚えた恐怖は、まだ生々しく脳裏に染み付いている。

秀実が黙ってしまうと、イリスは再び瞳を閉じようとした。
が、屋上に響いた轟音で、一瞬互いを見合わせ、そしてビル内へ続くただひとつの扉へ同時に視線を走らせる。
本気で蹴破ったのか、恐ろしいことに蝶番の片方が外れていた。それを成した青年は銀色の頭をゆっくりと持ち上げ、身を浮かしかけた二人を認める。

「……和馬……」
「……、……何やってんだよ、ガキが」

低い呟きには、怒鳴り声以上に彼の怒りが煮詰まっていた。咄嗟に秀実は、イリスを庇って前へ出る。
一歩、進む和馬。
同じだけ下がる秀実。それを繰り返し、やがてイリスの声が行き止まりだと告げる。
和馬は淡々と距離を詰め、フェンス脇に追いつめられた二人を見下ろした。鋭い瞳にじろり、と睨まれ、耳の後ろを冷たい汗が伝う。
頭に衝撃を食らったのは次の瞬間だった。

「ヒデミ!」
イリスの甲高い悲鳴。振り抜いたシリウスを担ぎ直し、和馬は、倒れ込んだ秀実の肩を蹴って乱暴にフェンスから遠ざける。

「……てめぇは後だ」

それだけ言うと彼は、痛みに呻くこちらへ青いジェケットの背を向けた。
涙の膜越しににじんだ視界。コンクリートに点々と飛び散る赤は、自分の流した血液だろう。嫌だなぁ、変な心霊スポットとかにされなきゃいいが。

……赤。錆色。
助けにも来ないくせに何が恋人。

和馬が逆手に持つシリウスに、何かが反射してきらりと光った。頑丈な相手は実弾を持つ雪彦に頼るしかないが、小さな夢魔なら力任せに始末する彼をこれまで幾度も目にしている。
何も聞こえない。いや、正しくは、自分の脈拍がうるさすぎて、他の音が耳に入ってこないのだ。秀実は、重たい手足を動かしてなんとか立ち上がった。

先に昏倒させたのか、座り込んで微動だにしないイリスに、和馬も膝をついている。だから容易に、その頭へ腕が届いた。
背後に気付いた彼が向き直る瞬間、きつく握りしめた携帯を振り下ろす。がつっ、と手に嫌な感触を残して、たくましい大人が意外とあっけなく、横ざまに倒れた。血は出ていないようだった。

荒い呼吸を繰り返しつつ、和馬の胴体をまたいでイリスの前へしゃがみ込む秀実。そっと触れた頬は温かく、ちゃんと息もしている。だが起きる様子は無かったので、目蓋を閉じたままの彼女を背負い上げた。足下がふらつきかけ、フェンスにしがみついてバランスを取る。馬鹿野郎、気絶してる場合じゃねぇんだぞ。

壊れた扉へ向けて彷徨った秀実の視界に、ちょうどその場所に現れた雪彦の姿が映った。咄嗟に武器になるものを探すが、イリスを担いでいては両手も塞がったままである。

「……、……秀実くん」

わずかに左目を見開いた後、やがて雪彦は、困ったように微笑んだ。

「……どこヘ行くの?」
「…………」

……どこって、どこだ?

問いかけられて初めて、自分が何も考えずに行動していたことに気付く。

「……、とりあえず、僕はカズ君を回収したい。ちゃんと病院で手当てしてもらわないと。……そっちへ行ってもいいかな?」

雪彦は柔らかな物腰を崩さない。しかし、呆然と立ち尽くすままの秀実に、「弱ったな」とあまり弱っているようには見えない仕草で頭をかいて、それからゆっくりと上着の袖を抜いていった。

ぱさ、と落ちたジャケット。その上に、左脇のホルスターから外した拳銃が続く。
彼が抜き撃ちで使う、真っ白な銃。旧式なのは、ずっと昔から使い続けた愛着のある品だから。
雪姫、というそうだ。

「……これでいい?」

自らの分身に等しいそれをあっさり投げ出した彼が、空の両手をひらひらと振ってみせる。秀実はあっけにとられるばかりだったが、雪彦はその沈黙を肯定と受け取ったらしい。普段通りの落ち着いた足取りでこちらを遠巻きに回り込み、まず宣言通りに和馬の容態を確認する。

「……ユキさん」

やっと絞り出せた声は酷くかすれていた。のどが干上がったようだ。

「……大丈夫、脳しんとう起こしてるだけだから。秀実くんにやられてるようじゃ、カズ君もまだまだ甘いな」

冗談めかした台詞が、秀実の緊張をぷつんと切った。今度こそ膝の力が抜け、イリスを背負ったままその場にへたり込む。同時に、震え始めた肩が止まらなくなった。
そんなこちらと、目線を合わせるようにしてしゃがむ雪彦。伸ばされた手が顔の横を通り過ぎ、白く波打った毛束をつまむ。

「……、嫌だ……」

うわごとのような、まとまりの無い言葉の羅列が秀実の口から次々にこぼれた。

「イリスは、ダメだ、殺しちゃ。お願いだから……。ユキさん、オレ、イリスが……っ」

こぼれるのはそれだけではない。瞳から溢れるたくさんの涙も、頬を伝ってコンクリートにいくつもの丸い染みを作っている。

駄々っ子のように泣きじゃくる秀実の首から、雪彦がイリスの手をそっとほどいた。

「秀実くん……」

優しい、でもどこか寂しい笑顔。

「……、ごめんね」

……え……?

ぐい、と突然強く腕を引かれ、つんのめった秀実は和馬の足に蹴つまづいて転倒する。愕然と、曲がらない首に必死で意識を込めて振り返ってみれば、いつの間にか雪彦の手にあったナイフが閃くところだった。
一拍遅れて、金色の粒子が空へ散っていく。

イリス。
嘘だ。そんな。
……嘘だ。