第16話

 

そして秀実は今現在、事務所へ続く暗い階段を睨んでいる。
筑波は親切にもバイクで自宅前まで送ってくれたのだが、彼が去り、ドアノブに手をかけたところで、中に入るのがためらわれたのである。胸に溜まったこのもやもやを、もやもやのまま抱えていていいんだろうか。このまま日常に戻ってしまったら、消化不良は確実だ。

雪彦の行動に悪意が無いだろうことは、落ち着いて考えればすぐわかった。あれはたぶん、自身と同じ経験を秀実にさせまいとした、要するにお節介である。恐らく、彼が黙して語らない部分はもっと辛い出来事だったのだろう。

僕が一番怖いのは、昔の僕だ。
と、目を伏せる彼を思い出す。
いっそ雪彦が和馬のように、ただの私怨でイリスを手にかけたのだったら、秀実がこれほど悩むこともなかったのに。

脳の隅々まで重たい煙が充満し、一人で考えていたら頭が破裂してしまいそうだ。
それよりは、と思い切って冷たいドアノブから手を離し、鞄を背負ったまま、秀実はしばらく寄っていなかった古ビルに向かったのだった。
もやもやを消化するにはきっと、雪彦とちゃんと会うのが一番いい。だが、会ってどう話せばいいのか、何を話せばいいのか。というか、筑波は彼の前では話題に上げ難いから、という理由で外を選んだのだから、そこへわざわざ乗り込むのは自ら針のむしろに座りに行くようなものである。

一歩目を踏み出しかけて躊躇する秀実。すると、階段上の扉が開き、こちらの心の準備ができないにもかかわらず、当の雪彦がふらりと姿を現した。
珍しく下ろしたままの髪や、シャツにスラックスだけの格好からみて、どうやら起き抜けらしい。彼の生活リズムが相当狂っていることは以前から知っていたが、今日はそれに加えてかなりの疲労がたまっているように見えた。

「…………」

裏路地に面した小窓が開かれる。人目に触れるのを嫌がる彼だから、まだこの時間は誰も通らないこちら側から換気をするのだろう。肌に染みる冷たい風が階段の下まで流れてくる。雪彦はそこでようやく、こちらの存在に気付いたようだった。

「……、秀実くん」

ふわ、と揺れる長い髪。驚きから見開いた左目を、しかし彼はすっと細めると、腰に差していた雪姫を抜き、静かに秀実へ照準を合わせた。

「……、え……」

暗い銃口が自分を向いている。

「……彼女の敵討ち、かな?」
「は?」

そんな大それたことを考えて来た訳ではない。
こめかみを冷たい汗が伝い始める。誤解されているのだろうか。反論しかける秀実を雪彦は左手で制した。

「僕を狙ってきたんでしょう? でも、それなら僕だけを狙ったらどうかな、その子を放して」

そう彼が言った途端、外気なんて比較にもならない本物の寒気が首筋に触れた。いつのまにかそこには、少しでも身じろぎをすれば触れそうな位置に、赤錆の浮いた巨大な鎌の刃が添えられて鈍い光を放っている。

「…………っ!」

同時に、肩に何かが載せられる感覚。瞳だけを動かして確認すると、灰色の包帯に包まれた異様に指の長い手があった。
背後の存在は固く、冷たい。
こちらの心臓まで凍り付きそうなほどに。
秀実に覆いかぶさるように現れた錆色の死神へと、まっすぐに銃口を向けた雪彦は、そこでふっと微笑んだ。

「口がきけない、というのは聞いているけど……、でもこちらの言ってることはわかるんでしょう? その子を放してくれないかな? でないと、きっと貴方は後悔するから……」

優しげな笑顔は、まだそのまま。

「その子は、貴方の大切にしていた子に、貴方のあげられなかった名前をあげた子だよ」
「…………」

死神は反応しない。眼前の鎌が少しだけ傾き、血色の悪い顔の中の赤黒い隻眼を映し出す。逆の目蓋は手と同様に灰色の包帯で厳重に隠され、よく見れば露出している部分の皮膚にも、たくさんの醜い傷跡が縦横に走っている。
初めてちゃんと見た錆色の死神は、むしろ自分が死にかけているような濁った瞳の男だった。
感情はまったく読めない。
刃の中の虚像とはいえ、秀実が以前遭遇した時の圧倒的な存在感は、そこにはまるで無かった。あるいは、大事な何かと一緒に欠け落ちたというのが正解かもしれない。

イリスはこいつが好きだったんだな、とどこかで思う。そしてきっと、その逆も。

「……、おい、……おい、アハト」

喉がすっかり干上がっていて、秀実が絞り出した声はかすれていた。こちらを見下ろす雪彦が動揺を顔に出す。
彼と会うためにここへ来た。しかし、後ろの死神にはその何十倍も会って、ぶちまけてやりたいことでいっぱいだった。

「……お前、アハトっつうんだろ。イリスがそう呼んでた」

肩にかかる圧力が強くなる。濁った瞳が、刃の中からこちらを見る。ぎっ、とそれを睨みつけて、触れれば切れる凶器を添えられていることも忘れて、秀実はわめき散らした。

「お前何で、あの時居なかったんだよ! あんな大事な時にどこほっつき歩いてたんだよ! お前が居れば、イリスを守ってやれたんだろ……!」
「……、……秀実くん」
「オレはあそこに居たんだ。でも、オレじゃ駄目だった。お前じゃないと……」

じわりと視界が滲む。もう、怖いのだか悔しいのだかもわからない。自分の感情なのに。
ただ、目蓋を拭おうとして腕を持ち上げると、アハトが鎌をどけてくれた。

「……帰れよ。今更来たって遅いよ。こういう時だけ順番抜かそうとすんじゃねぇよ、馬鹿」

来るんだったら最初から来い、とは、泣きが入ったためにろくな発音にならなかった。
背後の気配は揺るがない。しかし、突然ふっと肩が軽くなり、同時に視界の端で揺れていたぼろ布みたいなマントや錆色の髪が、空気へ溶けるように消える。
文字通り支えを失って、よろけた秀実はその場に尻餅をついた。「秀実くん!」と声を上げ、銃を構えたまま慌てて階段を降りてくる雪彦。靴音がしないと思って見れば、その足下は裸足である。まったく、この人は何をやってるんだろう。

一瞬かなり脱力して、しかしもはや突っ込む気力も無くて、何故か無性に笑いがこみ上げて来て。彼が目の前へ立ったときに秀実が俯いていたのは、涙よりもそちらを隠すためだった。
腹筋と口を押さえた姿に雪彦は勘違いから狼狽し、何かを踏んづけたらしく「痛っ!」と悲鳴を上げる。そこが限界だった。
噴き出す秀実に、目線を合わせてゆっくりと膝をついた雪彦が、呆れ声で問う。

「…………。えっと、秀実くん、怪我はない? それと、僕何かしたかな……?」
「だって、ユキさんこの状況で裸足って……」
「それは……、仕方がないよ。少し外の空気が吸いたくなって、顔を出しただけだったのに……」

不満そうに呟く彼。秀実がもう一度目蓋を拭って、主に笑いの発作が落ち着くのを待ってから、雪姫を腰に戻した雪彦は愚痴まじりに言う。

「なんてタイミングの悪い……。まあ、僕はキミのおかげで助かったようなものだから、文句は言えないか」

彼の視線を追って振り返る秀実。先ほどまでの出来事が夢だったかのように、錆色の死神は何の痕跡も残さずその場から消えていた。

「……それで、今日はどうしたの? キミもやっぱり、……この間のことだろうね」
「うん。筑波からいろいろ聞いたんだけど」
「……、……ああ、そう……。彼も本当、お節介で困るな……」

遠い目をして雪彦がぼやく。やはり、あまり触れられたくない話だったらしい。
そんな彼に向かって秀実は、先ほどまで迷っていたのが嘘のように、スムーズな言葉を続けた。雪彦の前に、アハトに対して言いたいことを全部ぶちまけたので、その残りを口にするのが意外と簡単だったこともある。
結局、考えるより行動するタイプなのだ。

「うん。で、あれ聞いてもオレユキさんのこと許せないし、でも和馬みたいに恨むのもなんか違うし、だからどうしよっかなって思って」
「……うん、それで?」
「いや、だからそれだけ」

あっさりそう告げると、雪彦は頭痛をこらえるような仕草で目元を覆ってしまう。事態の展開が予想の範囲を逸脱してしまったらしい。きっと彼は彼で、どうすべきか悩んでいたのだろう。

「だから」

と、秀実は笑顔を浮かべる。

「オレ、もうちょっと考えてみるわ」