第2話

 

父の実家のことを、秀実は何一つ知らない。
それは現在進行形であって、つまり、普段暮らしている高層マンションの対角に位置するようなこの古びた日本家屋は母の実家だということだ。
かといって別に母方の親戚と親しいわけでもなく、この家に来たのも初めてだったりする。

踏むたびにきしきしと鳴る廊下を、台所目指してあてずっぽうに進む秀実。
もうそろそろ弔問客が訪れるころだから母を呼んで来て欲しいと、名も知らない親戚の一人に頼まれたからだ。

「……ええ、本当。母さんの言うとおりだったわ」

ぴたり、とガラス戸の前で足が止まる。
内側からかかった古ぼけたレースのせいで見ることはできないが、その中から漏れているのは母と祖母の声だった。

「……やっぱり、結婚相手は感情で決めちゃ駄目ね。どうして私、お金や学歴がなくてもあの人と一緒ならいいなんて思えたのかしら……」
「それをあの時気づいてくれれば良かったのにねぇ。挙句、うちにこんな迷惑持って来て……。……それよりお前、あの子はどうするの。ちゃんとした教育を受けさせるだけの貯えがあるの?」
「それは大丈夫よ。もともとあの人の給料になんて頼ってないもの。……秀実には、良い学校に進んで、良い会社に入って、将来家族を幸せにしてあげられるだけの力を持たせてやらないと」

戸を開こうとした手が、重力に従って落ちた。
ああ、そっか。
そのままくるりと踵を返し、荒々しい歩調で来た道を戻る。

「あれ、秀実君。お母さんは……?」
「道わかんねぇ」
「ええ!?だって今キミ、台所のほうから……」

無視。

どすどすと廊下を通り、途中にあった適当な部屋に脱いだ学ランを放り込む。
この陽気にこんなモン着てられるかってんだ。
履きなれない革靴をつっかけ、玄関の引き戸に手をかける。と同時に、

「……御免下さい……」

がらっ、と外からそれは開かれた。
出鼻をくじかれた秀実が見上げると、くじいた本人と視線が合う。
彼もまた驚いた表情を隠さずにいたが、秀実の驚愕はその比ではなかったのではないか。
なにしろ、黒スーツで固めた相手が見開いた目は、片方しかなかったのだから。

「…………」

というと誤解を生みそうだが、つまり顔面の右半分をガーゼと眼帯で覆っているわけである。
どこからどう見たって、この場に似つかわしくない怪我人の姿だ。
それさえ除けばいたって普通な、二十歳そこそこだろう柔和な若者だった。

しばし、そのまま時間が止まり、

「……、ユキさん、進むんなら早く進んでくれよ。踊るんなら踊る、飛ぶなら飛ぶで早く……」
「いや、後ろ二つの選択肢ってあんまり無いよね?」

後ろからの低いぼやき声に、ユキさんと呼ばれた若者は振り返り、後頭部で束ねてあった長髪が揺れる。
前言撤回。
普通ではなかった。

「……ってああ! カズ君、ネクタイどこにやったの!?正式な場では正式な格好をする! ほら」
「嫌いなんだよ、首絞められてる感がうぜぇから。だいたい、班長そんなこと気にする人じゃねぇだろ」
「気にするのはご遺族だよ! ちゃんとしてよ、頼むから」

何やら玄関先で押し問答を始めた奇妙な二人組。
それを聞きつけたのか、奥から先ほどの親戚が駆けつけてきた。

「……あ、あの、……弔問客の方、ですか……?」

やはり対応も若干引き気味。
慣れているのか気にしていないのか、眼帯ガーゼの若者が困ったような笑顔で頷く。

このたびは真になんたらとか、いえいえ遠いところをなんたらとか、お決まりなやり取りを交わしたのち、親戚の案内で彼らは家に上がった。
脇によけた秀実とすれ違う際、片目の若者がこちらに寂しげな笑みを寄こす。

「…………」

その背中に続く背の高い影。
もう一人の姿は、銀髪を逆立て大きなピアスをした、どこからどう見ても不良青年だった。
秀実の視線は、彼らに引き付けられたまま。
二人が廊下の角を曲がって消えるまで、そのまま玄関に立ちつくしていたが、続けて別の客が訪れたことでやっと我に返る。
喪服を着た、ふくよかな中年女性。
次の来訪者が常識的な人物だったことに若干ほっとした秀実が、父の親戚だという彼女の湿っぽい思い出話に付き合わされてうんざりするまで、さほど時間はかからなかった。