第9話

 

珍しく、母が早く帰ってきた。
近くのデパートの宝石店で働いているこの人は、土曜であってもだいたい夜七時まで仕事が詰まっているのが常である。

「息子が今年受験でって言ったら、若い子たちが気を利かせてくれてね。お母さん、これからはだいぶ楽になるわぁ」
「……あー、そう……」

ほこほこした笑顔の母を、リビングのソファに寝転がったまま秀実は見返した。
ぶっちゃけものすごくどうでもいい。
むしろ、小言タイムが増えることを考えれば、母の後輩には是非役立たずであって欲しかったのに。

土日も行っていいか、ユキさんに聞いてみようかなぁ……。

母が私室に消えるのを視界の端に、秀実は開いていた英語の単語帳に突っ伏す。

さすがに十一月にもなると、クラスの雰囲気も何となく変化してきたのが分かる。
そわそわするというか、意味無く頭をかきむしりたくなる、妙な焦燥感。
その空気は、「オレ就職するから!」と宣言したハズの秀実にまで感染し、こうしてつい参考書の類を手に取らせている。

もっとも、真面目に勉強するような姿勢ではないのだが。
思考回路は並んだアルファベットを拾わずに、内側に向けて動いている。

中学卒業後の進路として勝手に定めたバイト先、通称夢喰コーポレーション。
その小さな事務所を仕切る笹上雪彦は、秀実が働きたいと言うのを快く思っていないらしかった。

困ったような笑顔でやんわり忠告をくれる、彼の姿が思い浮かぶ。

――こっちしかない、って決める必要はまだないよ。高校行きながらだってバイトはできるし、今から可能性を捨てちゃうのは、ちょっともったいないんじゃないかな。

「あら、秀実、ちゃんと勉強してるのね」

はっと我に返ると、こざっぱりした格好に着替えてきた母が頭上からこちらを覗き込んでいた。

「最近成績落ちてきてるみたいだから、心配してたけど……。秀実にやる気があるのなら、今からでも塾通う? プロの指導は素人とは違うわよ?」
「……い、いいよ。この時期はみんなそうだって、そのおにーさんもそうだったって、言ってたし」

しどろもどろに返す秀実。母には、まさか無告知で始めたバイトで帰宅が遅いとは言えず、友人の兄に勉強を教えてもらっている、とウソをついている。

視線を逸らしたことが不審に映ったのか、母は眉間にしわを寄せた。

「そう? ところで、そのお兄さんはなんていう人なの? このあいだサッカー部の友達の家に電話かけてみたら、大学生のお兄さんがいる家なんか無かったけど?」
「は……っ? なんで電話なんか……」
「なんでって、お世話になってるんだから、お礼くらいしないと。クラスのほうの友達?」
「え、いや、えっと……。あ、図書館! 市の図書館で会って仲良くなった人で、名前は和馬。関和馬。だから友達のおにーさんじゃなくて、友達でおにーさんなの!」

さらにぐだぐだとウソを重ねる秀実。雪彦の名を出さなかったのは、彼が亡くなった父と親しかったことを思い出したからだ。

「お礼は、いつもちゃんとオレから言ってるよ。だから、母さんが電話なんかしなくても平気だって」
「あらそう……。じゃ、高校受かった時に、直接会ってお礼しようかしらね」

にっこり笑ってそうまとめると母は、秀実の脇を過ぎてベランダへ向かった。
その背中に、今日からは携帯を隠しておこうと心に誓う。
勝手に電話帳チェックでもされたらとんでもない。

ベランダの先には真っ赤な夕焼け空。
すっかり日没も早くなったこの頃だが、完全な昼夜逆転生活を送る雪彦は、果たして起きているだろうか。

「……、……母さん、ちょっと出かけてきていい? 例のおにーさんの家。昨日忘れものしてきて」

単語帳をセンターテーブルの上へ放って、代わりに引き寄せた携帯をポケットに押し込む秀実。
乾いたタオル類を回収してきた母がガラス戸を後ろ手に閉める一瞬、ひんやりした空気がリビングを吹き抜けた。

「場所どこなの? 送ってってあげようか」
「いいよ近いし」
「そう? じゃあ、そちらの迷惑にならないようにね。冷えるからコート着ていきなさいよ」
「ん」

おざなりな返事を残し、秀実は部屋を出る。

例のおにーさんの家、はもちろんウソだが、いいよ近いし、も真実ではない。
だらだら歩いていたせいもあるが、そんな訳で、ようやくたどり着いたビルの上にはきらりと一番星が輝いていた。

肝心の二階は常にカーテンで目隠しされているため、中の様子はここからでは分からない。
だが、例え雪彦が眠っていても、和馬かつかさか、どちらかは来ているだろうと思う。思いたい。

これで入れなかったら笑い話だ。
特に理由があったわけではないから、連絡するのも面倒だったのだが……。

目的地とにらめっこする秀実。
ふっ、と突然、頬に差していた最後の西日が遮られ、見上げた先には黒ずくめの男が立っていた。

「…………」

黒一色のロングコートにブーツ、スキー選手がかけるようなサングラスには、ぽかんとした顔の自分が映っている。
もちろん、相手の人相などは分からない。
絵に描いたような不審者である。

「……少年」
「え、……あ、え? あ、オレ?」

不審者は頷いた。

「ここに何か用事でもあるのか。お前のような子供が出入りする場所ではないが」

ぼそぼそと紡がれる、抑揚のない声。
質問ではなく、詰問といった調子の彼に、秀実は反感を覚える。

「……誰だよ、おっさん。オレが用事あるかどうかなんて、あんたに関係ないじゃん」
「関係ならある。うろちょろされては目障りだ。さっさと帰るがいい」
「んな勝手な……!」
「筑波!」

憤慨は明後日の方向から妨害された。
ビルのガラス戸を押しあけるのは、ポニーテイルに仮面の青年。
彼に視線を向けたまま、不審者は素早く秀実の腕を、グローブに包まれた大きな手で掴みあげる。

「雪彦さん、すまないが、記憶改変装置を貸してくれないか」
「え? あれ、秀実くん? 珍しく私服だね?」
「いや今日土曜だし……、ってそうじゃなくて!」

ぶん、と力を込めて腕を振ると、拘束は意外にあっけなく解け、反動で軽くよろめく秀実。
黒ずくめは当惑したような口ぶりで、雪彦に問いかける。

「……知り合いなのか?」
「うん。君のいない間にちょっと、いろいろあってね……。とりあえず、中に入って。明るいうちは、あまり出ていたくないんだ」

苦笑する彼に促され、不審者もとい筑波なる男は事務所へ続く階段を昇り始めた。
ふくれっ面の秀実も、何だか納得いかないまま、その後ろについていく。