はっ、と目が覚めた。
視界に映りこむ、ダイニングテーブルと対面式キッチン。
壁にかかった時計が、七時半を指している。
どうやら秀実は、リビングのソファで、すっかり眠り込んでいたようだった。
「……、……あれ…?」
なんだか、妙な夢を見ていたような、いなかったような。
不思議と、落差のような感慨を覚えて、ぱちぱちと瞳を瞬かせる秀実。
「あら、おはよう、秀実。疲れてたの?」
がちゃり、とドアが開き、エプロンをつけた母がリビングへ入ってくる。
「帰って来てから、頭とかちゃんと拭いた? 着替えただけじゃ風邪ひくわよ。あなた、コートまで車の中に置いて行って、寒かったでしょ?」
「……え…? ……ああ、うん」
まだ、どこかぼんやりとした頭で秀実は、今日の午後のことを思い出す。
三者懇談。
渋滞。
歩いて帰ると言って、車を飛び出して、それから。
それから?
そこから先がふっつりと、記憶に無かった。
頭をひねる秀実の横に、母がコートと通学鞄を置く。
それに気づいて、
「……母さん、オレ、母さんよりも先に帰ってきてた?」
「そうよ? あれだけ混んでれば、歩いたほうが早いに決まってるものねぇ」
「……、……家の鍵、鞄の中だったんだけど……」
「…………」
しばらく、きょとんとした顔で見つめあう、秀実と母。
やがて、母が困惑した声を上げた。
「……じゃあ、あなたどうやって家に入ったの? お母さん、朝、ちゃんと鍵閉めて出たわよ?」
「けど、現にオレ、入れてるんだから、開いてたんじゃねぇの?」
「それって、ひょっとして、空き巣か何かに入られたってことじゃないの? 大変! 通帳とか大丈夫かしら」
血相を変えて、部屋を出て行こうとする母。
しかし、それより早く、外側からドアが開いた。
「お? 何慌ててんだよ。何かあったのか?」
仕事着だという、青いジャケット姿のままの父だった。
瞬時に、対する母の口調が冷める。
「……、……あら、あなた、いたの。……もしかして、一番に帰って来て、鍵閉め忘れてなかった?」
「……あー…、鍵は使ったけど、一番かどうかはわかんねぇな。まっすぐ部屋行ったから」
そう、と言って、何事もなかったかのように母は、進路を変えてキッチンへ向かう。
ふう、と息をもらしながら歩いて来た父が、秀実の隣へ、どっかりと腰をおろした。
「……ったく、ユキのヤツ、事後処理の爪が甘いっつーの……」
「ユキって? 浮気相手?」
「残念、ただの口うるせぇ同僚。……ああ、そうだ、秀実。おもしれぇ話してやろうか」
秀実が返事をする前に、にやり、と意地の悪そうな笑顔を浮かべ、父は勝手にしゃべりだす。
「俺、今日さぁ、仕事中に、ちょうどお前くらいの年のガキ助けたんだわ。で、そいつ、腰抜けて立てねぇくせに、立てないんじゃない立ちたくないんだ、ってぬかすわけ。何があったんだか知らねぇけど、ずいぶんな怯えっぷりだったぜ」
「……立ちたくないって、どんだけ馬鹿な言い訳だよ。おおかた、車にでも轢かれかけたんだろ」
「そーかなぁ? あれはどう見ても、化けもんにでも出くわしたようなビビりっぷりだったけどな」
「いるかよ、化けもんなんて。もしいたとしても、オレなら絶対、腰なんか抜かさねぇけどな」
秀実が自信満々にそう言うと、なぜか腹を抱えて大笑いする父。失礼だ。オレを何だと思ってやがる。
「はははは…、いやー、すげぇわ、ユキ。こっちの腕は超一流だな。……二度掛けの手間が省けたのは残念だけど」
「……父さん、顔がヤクザ……」
「こんな爽やかなヤクザ屋さんがいるかよ」
爽やかとは程遠い、凄みのある笑顔の父に、呆れ声で秀実は、現実的な質問を投げかける。
「てゆーかさ、父さん、帰ってきて部屋に直行したのに、なんでまだ仕事着なわけ?」
「……え? ……あー…、これはだなぁ……」
「お風呂にでも行こうとしてたんじゃないの?」
テーブルに土鍋を運んできた母の声に便乗するように、父は明るい顔で膝を叩いた。
「そう! そうだった! いやー、話に夢中になって、忘れちまってたわ。あはははは」
「いいけど……、もうご飯できちゃったから、先に食べてるわよ。……秀実、お箸持って来て」
笑いながら風呂に向かった父を見送り、箸を並べ終わって秀実は、テーブルについて母と向かい合って座る。
母は、まだ神経を尖らせているようだった。
「ごめんなさいね、秀実。お父さんの仕事の話なんか、付き合わなくていいからね」
目の前では、カセットコンロの上で、真っ赤なキムチ鍋がぐつぐつと煮えている。
はんぺんが入っていないことに軽くショックを覚えつつ、秀実はぽつりと口を開いた。
「……母さん、父さんの仕事ってなんだっけ……」
「警備員だって」
心の底からどうでもよさそうに答える母。
「中卒で、ちっちゃな警備会社の平社員。秀実は、あんな大人になっちゃ駄目だからね。……さぁ、先に食べてましょ」
「ん……」
そう言われ、箸を上げる秀実だったが、
「…………」
父の消えたドアに、ちら、と視線を走らせ、思い直してそれをテーブルに戻した。
「……やっぱり、待ってる。せっかくだし」
「あらそう? ……そうね、どうせカラス並みに出てくるの早いんだから」
軽いため息をついた母も、秀実に同調して箸を置く。
ぐつぐつと、鍋の煮える音。
もしかしたらさっき、小さい頃の夢でも見ていたのかもしれない、と秀実は思った。
もう大丈夫だからな、と。
優しい父の言葉と、頭に置かれた手の感触と。
そんな印象が、記憶の隅に残っているような。
気が、したから。
その年の、五月。
父は。
吉口信治は、この世を去った。