第4話

 

はっ、と目が覚めた。

視界に映りこむ、ダイニングテーブルと対面式キッチン。
壁にかかった時計が、七時半を指している。

どうやら秀実は、リビングのソファで、すっかり眠り込んでいたようだった。

「……、……あれ…?」

なんだか、妙な夢を見ていたような、いなかったような。
不思議と、落差のような感慨を覚えて、ぱちぱちと瞳を瞬かせる秀実。

「あら、おはよう、秀実。疲れてたの?」

がちゃり、とドアが開き、エプロンをつけた母がリビングへ入ってくる。

「帰って来てから、頭とかちゃんと拭いた? 着替えただけじゃ風邪ひくわよ。あなた、コートまで車の中に置いて行って、寒かったでしょ?」
「……え…? ……ああ、うん」

まだ、どこかぼんやりとした頭で秀実は、今日の午後のことを思い出す。
三者懇談。
渋滞。
歩いて帰ると言って、車を飛び出して、それから。

それから?

そこから先がふっつりと、記憶に無かった。

頭をひねる秀実の横に、母がコートと通学鞄を置く。
それに気づいて、

「……母さん、オレ、母さんよりも先に帰ってきてた?」
「そうよ? あれだけ混んでれば、歩いたほうが早いに決まってるものねぇ」
「……、……家の鍵、鞄の中だったんだけど……」
「…………」

しばらく、きょとんとした顔で見つめあう、秀実と母。
やがて、母が困惑した声を上げた。

「……じゃあ、あなたどうやって家に入ったの? お母さん、朝、ちゃんと鍵閉めて出たわよ?」
「けど、現にオレ、入れてるんだから、開いてたんじゃねぇの?」
「それって、ひょっとして、空き巣か何かに入られたってことじゃないの? 大変! 通帳とか大丈夫かしら」

血相を変えて、部屋を出て行こうとする母。
しかし、それより早く、外側からドアが開いた。

「お? 何慌ててんだよ。何かあったのか?」

仕事着だという、青いジャケット姿のままの父だった。
瞬時に、対する母の口調が冷める。

「……、……あら、あなた、いたの。……もしかして、一番に帰って来て、鍵閉め忘れてなかった?」
「……あー…、鍵は使ったけど、一番かどうかはわかんねぇな。まっすぐ部屋行ったから」

そう、と言って、何事もなかったかのように母は、進路を変えてキッチンへ向かう。
ふう、と息をもらしながら歩いて来た父が、秀実の隣へ、どっかりと腰をおろした。

「……ったく、ユキのヤツ、事後処理の爪が甘いっつーの……」
「ユキって? 浮気相手?」
「残念、ただの口うるせぇ同僚。……ああ、そうだ、秀実。おもしれぇ話してやろうか」

秀実が返事をする前に、にやり、と意地の悪そうな笑顔を浮かべ、父は勝手にしゃべりだす。

「俺、今日さぁ、仕事中に、ちょうどお前くらいの年のガキ助けたんだわ。で、そいつ、腰抜けて立てねぇくせに、立てないんじゃない立ちたくないんだ、ってぬかすわけ。何があったんだか知らねぇけど、ずいぶんな怯えっぷりだったぜ」
「……立ちたくないって、どんだけ馬鹿な言い訳だよ。おおかた、車にでも轢かれかけたんだろ」
「そーかなぁ? あれはどう見ても、化けもんにでも出くわしたようなビビりっぷりだったけどな」
「いるかよ、化けもんなんて。もしいたとしても、オレなら絶対、腰なんか抜かさねぇけどな」

秀実が自信満々にそう言うと、なぜか腹を抱えて大笑いする父。失礼だ。オレを何だと思ってやがる。

「はははは…、いやー、すげぇわ、ユキ。こっちの腕は超一流だな。……二度掛けの手間が省けたのは残念だけど」
「……父さん、顔がヤクザ……」
「こんな爽やかなヤクザ屋さんがいるかよ」

爽やかとは程遠い、凄みのある笑顔の父に、呆れ声で秀実は、現実的な質問を投げかける。

「てゆーかさ、父さん、帰ってきて部屋に直行したのに、なんでまだ仕事着なわけ?」
「……え? ……あー…、これはだなぁ……」
「お風呂にでも行こうとしてたんじゃないの?」

テーブルに土鍋を運んできた母の声に便乗するように、父は明るい顔で膝を叩いた。

「そう! そうだった! いやー、話に夢中になって、忘れちまってたわ。あはははは」
「いいけど……、もうご飯できちゃったから、先に食べてるわよ。……秀実、お箸持って来て」

笑いながら風呂に向かった父を見送り、箸を並べ終わって秀実は、テーブルについて母と向かい合って座る。
母は、まだ神経を尖らせているようだった。

「ごめんなさいね、秀実。お父さんの仕事の話なんか、付き合わなくていいからね」

目の前では、カセットコンロの上で、真っ赤なキムチ鍋がぐつぐつと煮えている。
はんぺんが入っていないことに軽くショックを覚えつつ、秀実はぽつりと口を開いた。

「……母さん、父さんの仕事ってなんだっけ……」
「警備員だって」

心の底からどうでもよさそうに答える母。

「中卒で、ちっちゃな警備会社の平社員。秀実は、あんな大人になっちゃ駄目だからね。……さぁ、先に食べてましょ」
「ん……」

そう言われ、箸を上げる秀実だったが、

「…………」

父の消えたドアに、ちら、と視線を走らせ、思い直してそれをテーブルに戻した。

「……やっぱり、待ってる。せっかくだし」
「あらそう? ……そうね、どうせカラス並みに出てくるの早いんだから」

軽いため息をついた母も、秀実に同調して箸を置く。
ぐつぐつと、鍋の煮える音。

もしかしたらさっき、小さい頃の夢でも見ていたのかもしれない、と秀実は思った。
もう大丈夫だからな、と。
優しい父の言葉と、頭に置かれた手の感触と。
そんな印象が、記憶の隅に残っているような。
気が、したから。

その年の、五月。
父は。
吉口信治は、この世を去った。